「ある」はずが「ない」

 今年、人生で初めて買った盆栽の桜は、三月二十日に最初の桜が花開き、
二十八日に最初の花が縮れて満開の時期が終わり、四月六日に最後の二輪が
縮れたら、もう蕾はない。
 葉が伸び始めた。
 一方、まさしくこの日、花屋では、売れ残っている盆栽の桜が満開になっ
た。
 開花の時期がずれたのは、店先と家の中で暖かさが違うからだろう。
 実はこの数日前、店のその桜は、蕾がようやく咲きかけてたのに、首を垂
れて、今にも土につきそう。
 水が足りないのではないかと馴染みの店員に言ったら、やはり土が乾きき
っていたようで、慌てて水をたっぷり遣ったら息を吹き返したらしい。その
数日間、店は朝からひっきりなしの客で、切り花の補充もままならないほど
忙しく、ほかの鉢物もみな、干上がっていたらしい。
 とにかく、店のその盆栽は四月六日に満開になった。
 行く度に見ていた私は、蕾の数から、どうせ花が咲いてもしょぼい、と心
密かに憐れんでいたのだが、満開になったら圧巻である。
 それが税込み五百五十円という破格の値段になったのは、咲くまでを楽し
んでもらうという盆栽の醍醐味の期間が終わったからだとか。
「帰りに、誰も買っていなかったら、買います」 
 私は言った。
 三十分後に買い物を終えて戻ったら、
「売れてしまいました」
 私が花屋を離れてすぐに行列ができるほどの客が来て、その中に桜の盆栽
を持った人がいたというのだ。
 なんで支払いを済ませておかなかったのだろう。
 買う、と宣言しただけでは、取り置いてくれない。
 だが、いみじくも私は本音を口にしていた。
「誰も買っていなかったら」
 店員もそうだが、私も、まさか買う人が現われるとは思っていなかった。
 満開の状態で買っても生け花と同じかそれ以上の期間楽しめるからお買い
得だと計算できる人に、私は、買い手が付かなかったら可哀相だから私が引
き取ってあげると考えたことがいかに傲慢だったかを思い知らされたのだ。
 逃した魚は大きい。
 以来、ずっと、ぐずぐず悔やみ続ける私。
 すると、まあ、なんということでしょう!
 葉が伸びるだけだった私の盆栽に、濃いピンクの蕾が二つ。さらに続いて
咲きそうな蕾も認められる。四月十二日のことだ。
 今、そのうち四輪が満開で、まるで、ほら、私だけで十分でしょう、私だ
けを大事にして、と言われている気がする。
 二鉢目も、と欲を出さなくてよかった。
 そうなるよう、天が采配してくれたのか。
 なんて感心してみるけど、本当は、すべて偶然なのだ。