私には対照的な叔母が二人いる。
近くに住む叔母をA、遠方に住む叔母をBとしよう。
叔母Aは、大腿骨を骨折して入院していたが、先日退院した。
この叔母は、夫が亡くなってからたまに、
「テレビは良いのをやっていないし。なんか寂しくって」
と電話してくるようになった。
「こういう時だけ電話して、ごめんね」
遠方に住む叔母Bは、私がパリにいた時、パリにも来る欧州ツアーに夫
婦で参加し、私に会いに来た。
その際、頻繁に連絡を取り合ったのをきっかけに、私は、パリ暮らしを
綴った手紙を送り、帰国してからも手紙を送り続けて今に至る。
叔母からは葉書か電話。
電話では、彼女が一方的に喋りまくる。
これを会話と言えるのかと思った私は、叔母が息継ぎした時に意見を言
ってみたら、流れを遮られたと不本意そうな空気が伝わってきたので、相
槌を打つだけに戻った。
でも、やっぱり疑問は持っていた。
それが綺麗に消えたのは、叔母Aと長電話するようになってからだ。
叔母Aとは普通の会話が成立する。
ただ、私が考えを述べると、特に彼女の生活や身の回りの役に立ちそう
な情報だと思えることを伝えると、たちまち彼女は心の扉を閉め、今の状
態が、最善でなくても、諸事情も鑑みるとこれ以外はあり得ないのだと熱
弁し始める。
「しまった」と思うが、もう遅い。
そして私は、ああ、私は今、叔母Aに虚しく時間を捧げているんだなあ、
と思う。
誰かと時間を共有するのは、その相手に時間を捧げること。なので、こ
う感じるのはおかしいんだけど。
その時間を私が有意義だと感じられない時、そう感じてしまうのだろう。
でも、人との会話はこういうことも多いのではないか。
「相手の話を聞くのは、そのあと自分が遮られずにたっぷり話すため」
そのためには「相手に求められていないのに、自分の意見を言わない」。
雑談の極意。
これって、女の人が喋るのは、解決策を教えてもらいたいからではなく、
黙って聞いてもらったら気が済むから、というのに通じそう。
話す側は気分が良い。でも、聞かされる側は不毛な時間を耐えるだけに
なる気がするけど、と思う私はそこだけ男脳なのか。
そして、こういうことなら、一方的に話して満足して私を解放してくれ
る叔母Bの方が私の性に合っている気がしてきた次第。
ところで、この二人から、それぞれのかかりつけ医への不信を聞かされ
た。
二人とも、医者に頭ごなしに叱られたという。