絵葉書

 もはや前近代的代物になった感のある国際郵便で文通している友が、一
人いる。フランスの片田舎に住むその友はパソコンを持っていないのだ。
 私は白い紙にパソコン打ちという素っ気なさ。
 一方、彼女からは、毎回、絵葉書。ちゃんと封筒に入っている。バカン
ス先からの絵葉書以外はそうするのものらしい。
 で、内容だが、私は頭を絞って話題を捻り出す。
 しかし、彼女の文面は、過去のも最新のも大差がない。時事の話題はな
く、かと言って私的な話もない。
 互いに一ヶ月程度で返信するようになっているが、私が送った四月三日
の手紙への返信が一ヶ月以上経っても届かない。少し不安になり、それか
ら、このまま自然消滅でもいいか、と思った。
 前回の渡仏で再会してから月日が経ち、文通だけで繋がっているのもな
んかなあ、という気持ちになることはあり得る。
 などと思っていたら、六月一日に絵葉書が来た。
 続いて十八日にも。
 私からの返信が遅いと、私の手紙と入れ違いになるリスクを冒して二通
目を送ってくることのある彼女だが、これほど矢継ぎ早の二通目というの
は、ちょっと変。
 私の四月の手紙を五月二十七日に受け取った、と書いてあった。
 フランスは五月十一日に外出自粛が解除になったが、それから二週間後
にようやく私の手紙は配達されたのか。
 すごいな、フランス。
 その間、彼女にしてみれば、私から数ヶ月音沙汰がなかったことになる。
業を煮やして、婉曲に催促すべく書いて送ったら、その直後に私の手紙が
届いたのだろう。
 よくある笑い話だ。
 ただ、一通目を読んでも、これは私の手紙を受け取っていないんだな、
と思えるようなちぐはぐな文章ではなかった。
 いつもどおり表面的な内容。
 かくも中身のない私達の文通。
 ゆえに私は、自然消滅もよし、と思ったのだろう。
 つまりは内容。
 いや、それは間違っている。
 読むに足る内容を必須条件とするなら、会う時は会うに足る会話、電話
する時は電話するに足る内容・・・ということになる。
 そうではなく、取るに足りない会話や無言でも心地好いから友達なので
はないか。
 話し下手、書き下手。それでも友達。そういうことだ。
 手紙は、次に会う時までの気軽な、でもとっても大切な縁繋ぎ。
 それに、気が滅入った時などに絵葉書を広げて眺めると、私を思い浮か
べて選んでくれたであろう彼女の気持ちがうわっと広がり、私は優しく甘
やかしてもらえるのだった。