信じるから、真実に

 私は歴史が苦手。
 日本史は最悪。
 でも、テレビの大河ドラマなどを見れば、楽しく学べそう。
 見ないけど。
 それに、この考えは間違っていそうだと、今のウクライナ戦争を見て、気
づかされた。
 ドラマは、皆が知る史実から大きく逸脱しない範囲で、存在しなかった人
物を登場させたりする。歴史小説も然り。
 しかし、この「史実」はそもそも正しいのか。
 歴史家とは、当時の誰かが書いた日記しか材料がなかったら、それだけを
鵜呑みにしない人達らしい。誰にも見せない日記であっても、人は自分のこ
とはよく書こうとするものだから。
 けど、そうやって確定された歴史的事実がつまらなかったら、大衆は信じ
たい話を本当だったと信じ込むのではないか。そして、それが真実として広
まる。
 一休さんと聞いて、
「このはし渡るべからず」
 に代表されるとんち話を思い浮かべる人は、アニメで一休さんを見た人達
が多いかもしれない。
「橋の端っこを歩いちゃ駄目なのか。じゃあ、真ん中を歩こう」
 だが、彼は、
「死にはせぬ 
 どこにも行かぬ 
 此処に居る
 たづねはするな
 ものは云わぬぞ」
 という言葉を遺すほど、高い悟りの境地に達していた。
 同時に酒や女に溺れ、禅僧にあるまじき俗物でもあった。
 それを、アニメの情報だけを頼りに、一休さんとは機転が利く小坊主だっ
たと思い込んだ人がいたとしても、愚かだと断罪することができるだろうか。
 その人は、それを真実だと信じたのだ。
 ウクライナの報道を伝えるテレビで、町が爆撃を受け、着の身着のまま避
難した老人の言葉に被せる日本語のナレーションが、本人の声よりも哀れで
老いた口調であることの違和感。
 そもそも、この手の現地報道を伝えるナレーションがおどろおどろしい。
 視聴者の心を連れて行きたい方向が感じ取れる。
 変だ、と思わなければ、たやすく流されるだろう。
 そうであるなら、ロシアがウクライナの領土を奪う正当性を主張するのを
聞いて、外側にいる私達が何を思うとしても、内側にいる人達がどう思うか
に関して、安易に批難できないことになる。
 人が思うことは、批難できない。
 が、その思いが自分への蛮行となって表われた時は、受けて立つ権利が発
生する。
 ちなみに、上記の一休さんの言葉。
 浅く捉えると、自分が死んでも、いつでもあなたのそばにいる、というこ
とになるが、人に生死はないという悟りに到達した精神が読んだ句なので、
生死はなく、自他の分離もない、ということを語っているらしい。