習慣を疑う

 毎年、十二ヶ月分が一枚になった大判のカレンダーをもらう。
 一度も使ったことがない。
 だったら、もらわなくても、と思うが、急にやめたら縁起が悪そうで、や
められない。
 大学時代、鏡を落として割ってしまい、不吉なことが起きるのか、と憂鬱
になって、そう話したら、
「落としたら割れるのは当たり前」
 と同級生の男の子が言ってくれ、心が呪縛から解き放たれた。
 夜、爪を切ると親の死に目に会えない、という迷信が、昔は灯りが暗かっ
たので爪を切るのは危険な行為であり、それをこういう言い方で諫めたのだ
としたら、鏡のことは、以後はより注意して扱うように、とか、割れた鏡は
さっさと捨てよ、というアドバイスだったのかもしれない。
 だが、大判カレンダーの件はすこぶる個人的。
 ところが、そういうことですら、縁起が悪い、と思って、習慣をやめる勇
気を持ちづらくする方向に私の心は動いた。
 人ってこんな風に自分自身を怯えさせて自己規制するよう心が動きやすい
のかも。そして、きっとそうだと信じたら、それが真実であるかのように人
に言いふらし、三年続けたら理由もなく止めると罰が当たる、なんて格言め
いた言葉にまで昇華して、広く知られるようにしたがるかもしれない。
 ただ、私は、使わないのにカレンダーを置いておく愚も気になっていたの
で、壁に貼ってみた。今頃になって、なのだが。
 すると、いいのだ。
 十二ヶ月分が一度に見られると、翌月の同じ曜日を知りたい時にすっとわ
かる。手帳のは字が細かくて見る気になれないが、これだとストレスがない。
 ああ、もっと前から使っていれば。
 悔やむより、来年のをもらうことだ。
 もらった。
 さて、この一件は私に気づかせてくれた、私の頭の硬さだ。
 だって、もらうけれど使わない、という以外の発想を持てなかったのだか
ら。
 理由はわかる。
 人は楽をしたい。
 脳は省エネが好き。
 これはこうする、と決めてしまえば、脳は楽できる。
 もう考えなくて済むから。
 でも、それが進歩や変化を阻む罠になる可能性はあると心得ておくことは
必要だろう。
 パソコンの中を整理することにし、まずはYoutuberの過去の動画のブッ
クマークを消したら、その表紙のページのURLも消してしまった。
 検索すればすぐに見つかるから、問題ない。
 のはずが、検索が面倒で見なくなった。
 困らない。
 そこにびっくり。
 私は不要なことに時間を奪われていたのか。
 また一つ、凝り固まった習慣から解放された。