幼児英語が必要だとしたら

 幼稚園児を持つ友達が、テレビで、授業が英語で行なわれる私立小学
校の子供がぺらぺらと英語を喋っているのを見て、「すごっ」と言った。
 その声が羨ましそうだったので、思わず私は、
英語圏の国に住んでいるようなものだから、当たり前でしょ」
 と、言わずもがなのことを言ってしまった。
 私は、頼まれて幼児に英語を教えることになったが、相手が幼児とい
うことを自分なりに消化するのに時間がかかった。
 なんで中学からじゃあいけないの。
 私はそれで十分間に合ったし、文法的理解により文章を構築していく
手法はかなり効率のよい学習法だと今でも思っている。それでカバーで
きないナチュラルな言い回し、なんてものは、そのあと、必要な時が来
てからでも身につく。
 けれども、国際会議で、教授クラスの人達の英語を耳にすると、英語
とは別物の下手なお経を聞いているようで、つらかった。そういう発音
だった教授の一人が、発表後の質疑応答で、若手の、たぶん留学経験の
ある人からなめらかな英語で質問されると、その英語が理解できなかっ
たのか、あるいは事前準備のない英語は話せないのか、黙り込み、議事
進行の外国人に救いの手を差し伸べられて、なんとかその場をしのいだ。
その事自体は彼のためには「よかったね」だが、教授という立場を考え
ると、いくらなんでもあんまりだ、と思った。
 フランスでは、外国語は文法理解と話す聞くレベルが等比でないとバ
ンバン落第させられるため、日本語学習がわずかに一年目の大学生とで
すら、彼らが習ったボキャブラリーの範囲で会話が成り立ち、私は、自
分の大学時代のフランス語を思い返して呆然としたものだった。
 この差がどこから来るのか、わからない。
 しかし、現象を見る限り、一般的日本人は早いうちに聞き取り能力が
硬直する傾向にある、とは言えるかもしれない。
 要は、耳の問題である。
 ならば、耳に限界が訪れる前に英語を始める意義はあるかもしれない。
私はそう納得した。
 ただ、これだと、救われるのは英語耳だけになってしまう。
 生まれたての子供に、この言語は聞き取れない、喋れない、という限
界はない。あらゆる音を聞き取れていた耳が、次第に、生きるに必須の
音しか聞き取れないよう限定されていくだけのこと。
 なので、一番の理想は、生まれたての“耳”を保持する方法が見出され
ることである。それさえ叶ったら、もう、私達はいつからでも、どんな
言語でも、楽に聞いて話せるようになるだろう。
 そうなる未来を夢見ている。