あらゆる外国語が聞き取れる耳

 もう一回だけ、英語の話。
 先日、中央教育審議会の外国語専門部会委員の一人だという大学教授
が、「英語の授業は英語で行なうのが基本」の主眼は「英語で授業では
ない」と述べた意見を新聞で読み、私は目が白黒。
ゆとり教育」は「もうそんなに勉強しなくていいからゆっくりしな」
という意味ではなかったはずだが、そう受け止められて、失敗した。
 スローガンって大事だと思うんだけどな。
 わかりやすくて、誰が読んでも唯一無二の解釈になること。
 だが、今回もそんな基本にはほど遠く、今から英語改革の今後が見物
である。
 ところで、私は、大学でフランス語を学んだものの、社会人になって
からフランスに住んだ当初、フランス人がどんなに大声で喋っても、風
がしゅわしゅわ吹いているとしか思えなかった。人の声が、人の声に聞
こえない。
 長い中断のあとに再開された高校の同窓会で、私には絶対音感があっ
たと言われたので、私が英語の発音に困らなかったのは、そのおかげだ
ったかもしれない。しかし、その能力も、大学を過ぎると翳りが生じた
ことは、フランス滞在の一件が証明している。
 ドイツ人は英語もフランス語も簡単に喋れるらしいが、ドイツ語の周
波数だったか何か、言語が有する幅の中にそれらの外国語がすっぽり収
まり、聴き取れない発音がないおかげ、と聞いたことがある。
 一方、日本語の領域内に英語は完全には収まらないし、フランス語は
さらに大きくはみだすとか。
 人は皆、幼いうちはどの国の言葉も耳がとらえるが、成長するにつれ、
不必要な言葉は聞きとれない耳に育ってゆく。耳の省エネ化だ。
 ために、大きくなってから外国語を学ぼうとすると、一度捨てた能力
を取り戻さなくてはならないのだが、その時、個人差が大きく影響を及
ぼす。
 で、私は思った。
 外国語は英語だけではないのだから、いつ、どんな外国語を学ぶこと
になっても不自由しないよう、幼い頃の耳をキープできればいいのでは
ないか。
 もし誰か、世界中の発音をすべて洗い出し、それらが音符であるかの
ように愉快に学ぶ教授法を編み出してくれて、小学生のあいだは、その
音楽のような授業を受けるようになれば、どんな国の言葉もすべて聞き
取れるし、すべて正しく再生できて、あらゆる外国語に対応できる基礎
体力が身につくということだ。
 遠い未来でいいから実現してほしい、外国語教育。
 私は、本気で「あり」と夢見てるんだけど。