幸せの時間

 今度フランス人と会うに先立ち、彼女のブログを読んだ。日本に来て
から開設したというブログである。
 読んでから、私は落ち着かない気分になった。知らないに等しい相手
の心の内を勝手に覗き見したような気になったからだ。会って話せば、
その話題になることもありそうな内容だったが、私の心はそう動いた。
なぜ。
 巷には本もテレビもブログも溢れるほどにあるけれど、どの場合も、
私は完全に受け身なのだった。決して、その発言者と対等に語り合う立
場にはならない。一見、不公平そうだが、今回、そうでなくなる状況を
迎えることになってみると、私だけが、彼女の思考を幾ばくかでも先に
知り得ることになったのが、逆に彼女にとって不公平だと感じられたの
だろう。
 不公平、あるいは不利。
 だって、親近感を抱くにしろ先入観を持つにしろ、私だけに赦された
ことなのだから。
 そして、私は、私の場合を思った。
 感じたことをそのままにしておくと心から消え去るので、書き留める。
と、せっかくだから誰かに読んでほしいと自己顕示欲が目覚める。でも、
知り合いに読まれるのは、ちょっと困惑かなあ。本来双方向のはずの関
係に一方的なメッセージ発信を持ち込むことの違和感があるし、どんな
に打ち解けあった仲でも話さないようなことを書くこともあり、先入観
ならぬ“後入観”を持たれるとしたら、いいのか悪いのか。
 とにかく、彼女の日本語が上達しても、私のブログのことは黙ってい
よう。
 ところで、私は、英語の家庭教師先の小学生が、書きたいと言えば、
レッスン後に、日本語で作文を書かせている。母語の自己表現がしっか
りできた上での外国語だと考えているからだ。
 先日の作文は、タイトルが『しあわせのじかん』とあった。私を交え
て家族みんなでおいしいものを食べる時間や、人から賢い、すごい、偉
い、遊ぼう、と良いことを言ってもらうのが幸せなのだとか。
 私はいたく安堵させられた。
 初めての日、レッスン後に私にだけケーキを振る舞われて、子供達
の目が一斉に集まる中で食べるのは気が引け、固く辞退したら、次から
家族みんなで食べることになったのはいいけれど、今や軽食の様相で、
なんとなれば、空腹で何度か私のおなかが鳴ったのを子供達が母親に告
げたからだと私は睨んでいるのだが、よって大いに恐縮しているところ
だったのだ。
 でも、その時間を楽しみにしてくれているとわかった。
 作文でなければ、知り得なかったことである。