そのフランス人は友達のおかあさんで、友達の帰国後、友達とは音信
不通になったが、おかあさんとは今も、メールと、添付書類で送る長い
手紙で繋がり合っている。
会ったこともないのだから、縁とは不思議なものだ。
七月初めにもらった手紙に、返事を書き出したのは八月末。
が、あまりの暑さのせいか、したためるフランス語はまとまりがなく、
中断したら、早、十一月。性根を入れて取り組み、ようやく、きのうの
夜、全部送り終えた。
長すぎる文章は、送る前に読み返すと必ずスペルの間違いやら何やら
が見つかり、永久に送れなくなりそうなので、話のまとまりごとに、書
けたら送り、きのうのNo.4にて一応今回の手紙が完結したのだ。
総計二十二ページ。
我ながら、よく書きました。
ところで、八月の文章がそのまま使えるかと読み返した私は愕然とし
たものだった。
その文章を読まなければ、七月にしつこい風邪にかかったことを綺麗
に忘れ去っていたんだもの。
夜中に何度も激しく咳き込んで目が覚め、すると、なかなか寝付けず、
そういう夜は長く、体力は消耗するし、心は鬱々として、果たしてこの
風邪は本当に完治するのかとまで疑う暗い日々だったのに。
記憶のメカニズムから見ると、思ったほど落ち込んでいなかったのか
も。
記憶とは「情動記憶」であると、つい最近知った。
ある事象に遭遇して、感情が大きく動いたら、その場面が心に深く刻
み込まれるそうな。
ああ、それで、同じ場面に居合わせても、その光景を覚えている人と、
覚えていない人ができるんだ。
言葉の場合も然り。
同じ言葉を聞いても、さらっと聞き流す人もいれば、過剰に反応する
人もいる。
その背景にあるのは、それぞれの個人的感情だったんだ。
だが、感情が激しく突き動かされる時、人は客観性を失っている。
ということは、たとえ明るい方向であっても、「はしゃぎすぎ」にな
るまで感情が高ぶるのは、ネガティブな感情同様好ましくなく、この世
に起こる出来事はすべからく、そういうこともある、と淡々と受け止め、
淡々とやり過ごせる境地こそが理想になるだろうか。
ただ、記憶のメカニズムによると、感情が凪いで波立たなければ、記
憶に残るものは不可避的に少なくなるはず。
「終わったことはすぐに忘れ去る私達って、実は、生きる達人なんじゃ
ない?!」
記憶力の悪い友と二人、この説に俄然色めき立ち、喜び合ったが、そ
ういう理解でいいのかしらん。
少し、不安は残る。