さみしい時は

「別に、こんな情報、詳しく知らなくてもいいんだけどなあ」
 と思いつつ、インターネットの見出しトピックスをクリック。
 くわばたりえが二歳にもならない息子を二回叩いたと十月のブログで
告白した一件も、そんな風にして知った。
 十一月には、彼女はテレビで、
「三日間、誰とも話さない時もある。スーパーのレジで“どうも”と言
うだけだったり」
 とか、
「子連れのおかあさんを見かけたら、必ず声をかける法律を作ってほし
いぐらい」
 と子育てのつらさを語っていた。
 三日間誰とも話さないって、ダンナは対象外ですか、と突っ込みたく
なったことを除けば、幼き子供との密着状態は、時に気が狂いそうに孤
独に感じることもあるだろう、と独身の私でも想像がつき、
「その気持ちはわかる」
 と共感。
 ただ、子供は育つ。
 すぐに、大人との会話が成立するようになる。
 そうなったら、いよいよ、「我が世の春」の開幕だ。
 家族で結束して、いつも幸せ。
 大人同士の楽しいお喋りは、ママ友と。
 そして、今の深い孤独を忘れ去る。
 でもね。
 世の中には、誰とも喋らない孤独がいつ果てるともなく続きそうな人
生を生きている人はいっぱいいる。
 そのことに思いを馳せたことはありますか。
 そういう人達と比べたら、今いっときの忍耐で済むあなたはどれほど
優位か。
 そう気づくと、
「誰でもいいから、私に話しかけて」
 と叫ぶ甘えが見えてくる。
 なぜ、人に求める。
 なぜ、自分から他者に働きかけない。
 くわばたりえは、
「可愛いお子さんですねえ、と言ってくれるだけでもいい」
 とも述べていたが、これもやっぱり、他者からの好意をポカンと口を
開けて待ち受けていればいいのが私、と思い込んでいるから出てくる言
葉。ある意味、傲慢である。
 自分からは見知らぬ人に声をかけにくい、と言うのなら、他者も同じ
理由であなたに声をかけることをためらい、無言で通り過ぎるだろう。
 我慢大会。出口はない。
 学校帰りの小学生の女の子が、T字路を曲がり、私が歩く道の反対側
に現われた。
 目が合い、私はにっこり。
 それで十分と思ったが、そのまま別れたら後悔しそうな気もして、
「こんにちは」
 すると、その子も、
「こんにちは」
 マンションのエレベーターの中で一緒になった男の子が紙袋をさげて
いるので、
「これから出かけるの」
 と聞いたら、
「いえ、友達の家にリンゴを届けるんです」
 誰かに話しかけてほしいなら、自分から話しかけてみる。
 まず、自分から。
 必要なのは、少しの勇気。
 ちがうかなあ。