健康なら、より遠くへ

「なぜ生まれてきたのか」
「生きている意味はあるのか」
 生きていれば、そんな疑問が一度ぐらいは頭をよぎるのではないか。
 こういう深遠なる問いは、家族や友達とのお喋りでは解決しない。
「書く」という行為が光輝く場面である。
 書こうとすると、誰でも自分の心の奥深くを覗き込むことになる。
 そんな風にして覗いた心の中を、人生の先達(せんだち)が本や新聞
で語ってくれ、私は耳を傾けた。
 が、綺麗に忘れて、
「現にこの世に存在しているのだから、なぜ、と考えるのは、考えるだ
け時間の無駄」
「どうせ生きるのなら、心が明るく楽しくなるような生き方を積み重ね
ればいいんじゃないの」
 結局、「どう生きるかに集中するといいかも」と私自身の考えを語る
ことになる。
 もっとも、私の考え、などではなくて、読んだ言葉が私の心に浸透し、
こういう表現となって私の口から出てきている可能性はある。
 ところで、「生きている価値」に関して。
 私の考えは明快だ。
 全ての人に生きている価値がある。
 あなたは、この地球で生きているだけで、誰かのためになっている。
 あなたは、誰かにとって大切な存在。
 あなた自身はそう感じなくても。
 それはもう心から断言できるのだが、一方、本人自身の満足というこ
とになると、私は「きのうと同じ今日を生きるのでは、意味がない」と
思ってしまうのだった。
 向上心。
 子供のいない専業主婦の友達と話していた時、私は、
「向上しないのなら、生きている意味がないやん」
 と口走った。
 言ってから、ああ、これは私の本当の気持ちだなあ、と気がついた。
 自分はもう勉強しなくてよい立場になった母親が、子供に勉強しろと
口やかましく言う、というようなのは、私は個人的には好きではない。
 親の背中を見せるつもりで、子供と一緒に漢字検定の勉強に取り組ん
だら、子供より熱中して一級を目指すまでになり、「なんで、そこまで、
おかあさん」と子供に言われる、というような話を聞くと、
「ああ、素敵」
 私は、やっぱり、今より先へ、もっと遠くへ、という生き方が好きな
んだろうな。
 こういう志向だと、困るのは病気。
 病気になると、完治を目指すことが人生の最大目標として与えられ、
それに専心していれば、今日一日を充実して過ごした気分になってしま
いそうだから。
 老人になったら、嫌でもそうなる。
 川越達也は、
「健康な人間は、頑張らなくてはいけない」
 と言った。
 私なら、
「健康な者は、より遠くへ飛べ」
 今回体調を崩して、この思いを再確認した。