新聞などで、映画の紹介欄を読む。
必ずうんざりさせられることが、一つ。
誰が書いても、話の結末だけは伏せるからだ。あるいは、物語の鍵と
なる部分を言わない。
判で押したみたいに、みんな、そう。
なんで。
その伏せた部分を語ったら、映画を観に来てもらえなくなると、書い
ている本人自身が信じ込んでいる、と伝わってきてしまう。
小説の書評も同じ。
愚かだなあ。
私はそう感じる。
観る前、読む前にオチを知られたら、客を失うような作品は、もとも
と、「映像の芸」「文章の芸」がなかったってことではないのか。
十五、六歳頃に相思相愛になり、このまま死んでも悔いはないと思っ
たのに、その後、男は、都に出て勉学に励むと、相手の女が自分の未来
の妻にふさわしくないと感じるようになり、しかし、女の変わらぬ真心
に後ろ髪を引かれる。
女を捨てたいが、捨てきれない。
どうすれば、女と澄みきった愛のみの関係になれるか。
男が水の精に相談する話が、新美南吉の『おしどり』だ。
四百字詰め原稿用紙で十三ページ半ほどの小作品。
「おしどりになれば、叶う」
と言われ、男と女はおしどりになる。
そんなあらすじ。
でも、これで原作を読んだことにはならない。
南吉の清らかなニホン語を読んでこそ、そうかあ、心変わりは、人で
ある限り、仕方ないことなんだと、なにか高尚な気分で納得させられも
するのだ。
それにしても、「人である限り、永遠の純愛は無理」とわずか二十二
歳にして看破した南吉にも驚嘆させられるが、子供達に向かって書かれ
たことにも驚かされる。
私は、現代小説に深く失望させられている。
もう、本当に、読む物がない。
心の糧となる小説が、ない。
進むべき方向性を見失い、路頭に迷っていた私の心は、新美南吉の新
装版・童話集と出合い、閃いた。
そう言えば、ジョン・スタインベックの『贈り物』も、一ページ目か
ら、鋭い観察眼に溢れた文章がきらめいていたなあ、と思い出したのだ。
原作が素晴らしければ、翻訳でも、その素晴らしさは十分に伝わる。
図書館のホームページで調べたら、小学生向けの本でも出ている。
あなどるべし、児童文学書。
そう学んだ私は、「少年少女」と冠した世界の良書全集を片っ端から
読むことを決意。
再び居場所が見つかって、ああ、幸せ。
ただ、びっくりさせられている。
こういう本を、小学生が、読んで、理解して、楽しめるんだ・・・。
今、大人の私は、大人向けの本として楽しませてもらっている。