新美南吉

 知り合いの自営業ベンツおじさんは、還暦を超えてもがんがん稼ぎま
くっている。
 が、一浪して入学した高校卒で学歴はストップ。
 それが心の傷なのか、
「サラリーマンって、たいした給料はもらってへんねんなあ」
 などと鼻をうごめかして言う。
 そこから話をどう展開させたいかが読めるので、
「どうせ見るなら、自分より上を見たら」
 敬語抜きで、私はピシャリと会話を断つ。
 ベンツおじさんと同年配の女性が同席していて、彼女は、これまでは
おじさんが勝手に注文してくれるホットコーヒーを飲んでいたが、その
日は、
「アイスミルク」
 を所望。
「はいはい」
 ベンツおじさんは腰も軽く、下の喫茶店に。
 自分でお盆を持って上がってくる。
 彼女の前にミルク入りのホットコーヒーが置かれた。
 次の時にはアイスコーヒー。
 毎回、彼女から、
「違うけど、まあ、いいわ」
 と言われ、三度目にようやく正しいのを運んできた。
「最初から冷たい牛乳って言ってくれたらええのに」
 とベンツおじさん。
 これには私も共感。
 同じことを横文字で言われると、別の物を指していると感じる人が出
てきてもおかしくはない。
 なので、名古屋地裁に、NHKがカタカナ言葉を遣いすぎると提訴し
た七十一歳男性の心情にも寄り添えるなあ。
 ところで、少し前に、私は、私自身の心の動きを観察して、
「清らかでない心根を自分の中に見い出すことを、舌なめずりして待ち
構えられる」
 と書いた。
 そういう性格なのだと思っていたが、新美南吉の生誕百年記念で出版
された新装版・童話集を読み始めて、気がついた。
 私は、本の中の登場人物達から学んでいたのだ。
 たくさん読んで、人の心の動きをたくさん知れば、私とて、彼ら同様、
醜い心持ちになることもあろう、と正常なる想像力が身につく。
 ただ、その手の学びの場はむしろ小説であるだろうに、なんで、私は、
新美南吉を読んで、そうと気づいたのか。
 あ、童話だからか。
 一行目から登場人物の個性がくっきり。
 心理描写は、小説顔負けに深遠。
 なのに、話の筋は明快で、それを最低限度の言葉で語りきっている。
 新装版には私がまだ読んでいない作品も多くあり、久しぶりに胸が打
ち震えている。
 おかげで、私は、私の心が渇望している世界を認識するに至った。
 是は是、否は否。
 因があって、果が生じる。
 そんなこの世の法則が背骨として貫かれ、絶対に黒が白になったりし
ない物語。
 爽快なる読後感。
 こういうのは、ルビ付きの古い本の中に多数ある気がする。