引き寄せたくなかった事が

 インターネットにはいつも感心させられる。これまでだったら探す前
から諦めていたような情報に辿り着けるからだ。
 祖母から母、母から私へと回ってきた手巻きの腕時計がいつ頃製造さ
れたのだろうと調べたら、一つだけ情報があった。一つあれば十分であ
る。
 写真でまったく同じだと確認できたその腕時計は一九六五年製とある
ので、約五十年前ぐらいの物のようだ。
 革バンドを交換して使う気満々の私。
 というのも、今使っているのは文字盤がオレンジ色で、カジュアルな
服でないと合わないのだ。でも、もう一つ買うのもなあ。時刻を知りた
ければケータイなどで事足りる。
 もし壊れたら、今度買う時はもう少し無難なのにしよう。
 すると、先日、店の中でその腕時計がするっと腕からはずれた。拾い
上げると、バンドが変な所で二つに分かれている。私の心を見透かして、
君は自発的に寿命を終了してくれたのかい、と腕時計に対して思いそう
になるが、時計屋に持って行ったら、新しいビスで留めてくれ、元通り
になった。
 母から五十年前の腕時計が回ってきたのはそのあと。
 腕時計が二つあったら服に合わせて使い分けられるなあ、とぼんやり
思っていたことが実現することになった。
 私は、お湯を湧かす時は湧いたらすぐ火を止めるし、電子レンジで物
を温める時は早め早めに切り上げて、突沸などとは無縁だが、腕時計だ
けは巻き止まり以上に螺子を巻いた。
 一日一回ほぼ同じ時刻に螺子を巻き、それも巻き止まりまで巻き上げ
るのが中の精密機械のために理想的、と聞くと、時計のために理想的に
振る舞いたくなったわけだが、指先が巻き止まりを感じても、思い違い
かも、と念を入れて余分に巻くほどの神経質さ。
 それにしても、腕時計のことが頭から離れない強迫観念のような事態
になると、電池式の腕時計が発明されて、どれほど人々が救われただろ
う、と思えてきた。進歩が退化になる場合もあるが、この場合は間違い
なく進化は人類への恩恵だ。
 もう手に入らない腕時計が使えるって優越感だなあ。
 でも、毎日の世話は手間。
 両立しない気持ちであるが、どちらも本音だ。
 そして、革バンドを替えて実際に使う前に時計が壊れた。
 予期せぬ現実が訪れて、私は、私が心の奥深くでどちらをより強く思
っていたかに気づかされた。
 わざと壊したつもりはないが、使えなくなったおかげで、この腕時計
の面倒を見なくてよくなった、という解放感がないとは言えないのであ
る。
 この顛末は母には内緒。