誰の顔色を見ているのだろう

 自分の考えを、婉曲あるいは強硬に否定される。
 支配的立場にある相手にそうされているうちに、抗うことに疲れ、も
うどうでもいいや、と相手の望むとおりに振る舞い始め、すると、あれ、
もしかしたら、それって自分を不幸にするための意地悪ではなくて、本
当に自分の考え方のほうがおかしいだけなのかも、と思えてきたりして、
自分のために一番良き方法を与えてくれるのなら、それに乗っかってい
ればいいのではないか、何よりラクだし、と得な立場に立てた気分にな
るかもしれない。
 しかし、
「で、何がしたいの」
 そういうことを考えさせないよう支配してきた相手から、突然、そう
聞かれることはあり得る。
「そんな、急にハシゴをはずされたようなことを聞かれても」
 と言いたいところだが、その強さがあるなら、もっと以前に反撥し、
関係が悪化しているだろう。
 なんか延々と「支配」について書いているが、発端は、二者択一、そ
れも人生に影響を及ぼすようなおおごとではない事で、
「どっちがいい」
 と聞いても、
「どっちでもいい」
 という以上の答えを返してくれない人達の不可思議を理解しようとす
るところから始まった、私なりの考察である。
 こういう人達こそ、親などから自分の意に添わないことを強要され続
けて、自分に自信が持てなくなり、どんな時にも、まずは相手の意向を
知ろうとするのではないか。それが見極められるまでは自分の意見を言
わない。
 が、そうではなくて、本当に心の底からどっちでもいいのだ、と言わ
れるので、ならば、そうなのだろう。
「心の底からどっちでもいい」
 というのと、
「決断の場面でいつも迷う、なんでこんなに自信がないんだろう」
 という心の呟きは、私には根っこは同じに見えるが、違うと言うので
あれば、それでもいい。
 大切なのは、ここぞ、という時には、周囲の期待や暗黙の圧力をも蹴
散らして、自らの思いを高らかに表明し、行動に移せることなのだから。
 けれども、言葉で議論を闘わすよりも、
「空気を読め」
 と言われるニホン社会。
 そして、メディアは、権力に深く切り込み、真実を暴くより、おもね
る態度を選んでいる。
 なんかなあ。
 個人も生きづらいけど、この社会も生きづらいなあ。
 そう感じるとしたら、個人の集合体が社会を成り立たせるのであって、
その逆はないので、個人が生きやすい生き方をしていないのであれば、
社会が生きやすくなるはずはない、というのは自然の理(ことわり)な
のではあった。