意味が、災いの元

 少し前まで、「パンツ」はズロースの意味だった。今はズボンの言い
換えだ。
 言葉は変わる、時代と共に。
 それがわかった上で、
「もう九時です」 
 この文章をぽつんと提示されたら、どう理解するのが今の普通だろう。
 ベンツおじさんが、この文を英語に訳せない。「もうすでに」という
単語を使えばいいだけなのに。
 彼の頭の中を知りたくて、別の文章の言い換えてもらうと、「もうす
ぐ九時だ」と答える。
 私の語感が変なのかと一瞬不安になるが、もう一人の女性も首を傾げ
てくれたので安堵し、「もうすでに」の意味に受け取れる文を考えた。
「早く行かなくちゃ、もう九時だよ」
 どっちもありか・・・。
「早く寝なさい。もう九時じゃない」
 は、さすがに「もうすでに」の意味しかないわよね。
 ベンツおじさんは、これも「もうすぐ九時だ」の意味だと言いそうだ
なあ。
 ニホン人同士、ニホン語で話していると、自分が喋る言葉に乗せた意
味がそのまま相手に通じているという前提に立ってしまい、その前提を
疑うという発想ができない。それができたら解ける誤解も多いだろうに、
さらに自己流で言葉を重ね、ますます齟齬が広がると、
「この人とは話が合わない」
 と結論することもあるかもしれない。
 この世の悩みは人間関係だと言うけれど、悩みを産む元凶は、言葉だ。
 恋愛結婚ではない結婚をした友がいる。
 結婚後半年も経たないうちに、
「もう、結婚して三年経った夫婦みたいなものよ」
 と言い、先日は、
「ダンナと最後まで言い合ったら離婚するしかなくなるから」
 と言った。
 けど、毎日昼休みにダンナから電話がかかってくるそうで、私と一緒
の時にもかかってきたが、友は優しく応じていたし、ダンナの会社の夏
の社員旅行は一泊で、ダンナ一人じゃ可哀相だから、私も一緒に行って
あげると言っていた。
 彼女にとってダンナはどういう存在なのか。
 少し考えて、友から返ってきたのは、
「無関心」
 のひと言。
 私は鼻白む。
 そんなに救いようのない関係だったのか。
 でも、腑に落ちない。
 家に帰ってから、メールを書いた。
 ダンナに無関心とは、ダンナが死んでもどうなっても平気という意味
になるけど、そういうことなの。別れない方が都合が良いから別れない
だけで、そんなさみしい心情なの。
 すると、日々いろいろある中で感情が揺れ動くのを理路整然と伝えら
れなかったようだ、言葉の捉え方にズレがあることもわかった、と返事
が来て、ほっとしたが、しばらくの間、私は言葉を遣いたくなくなった。