脳の初期設定

 人は、言葉を使って考える。だが、この思考を閃いたのは私一人の力
だ、とうぬぼれるとしたら浅はかで、私達は、過去から今の私達に繋が
る連綿たる人達の思考の先っぽに新たな若葉を芽吹かせたり、花を咲か
せたりできるだけ。
 人類全体が巨大な神経回路みたいだなあ、でも、中には害悪に見える
神経回路もあるだろう、と前回書いたのだったが、人の本質的なことの
正しさに百花繚乱などない、と一刀両断したのは池田晶子だ。論理で考
え詰めてゆけば、誰も皆、必ず、たった一つの同じ考えに行き着くはず、
と彼女は断言した。
 実は私もそう思っている。
 先日、京都の高山寺の宝物『鳥獣人物戯画』に関して、重要な発表が
あった。甲巻の絵の二十三枚すべてを分離し、裏打ち紙を剥がし、透過
光で調べ、紙に残った刷毛の跡を調査したら、順番が入れ違っている箇
所が判明したそうな。以前から、今私達が見ている順番だと絵の話の辻
褄が変で、順番が入れ替わったのではないかと囁かれるも、立証できな
いので公言されなかったらしいが、その姿勢は正しい。
 こう考えた方が筋が通ると直感されても、論理的に証明できなければ
単なるたわごと。にも関わらず、それに力を与えると、
「死んだら、お星様になる」
 に類する思想を是とする道に突き進むことになる。
 こういう詩的で甘美な言葉は、心を慰めるためには有用だが、これこ
そが人の真実なのだ、と人々に信じ込ませるようになったら、人類の知
の後退だ。
 でも、実際には、中途半端な思考を正しいと言い張る場合もあるだろ
う。それが現実。つまり、仕方なく思考の害悪も混在するものだと私は
言いたかったのだ。
 私は、『鳥獣人物戯画』が描かれた平安時代の人達どころか百年前の
人達でも遠すぎる過去だと感じていたが、それこそ論理なき思い込みだ
ったと気がついた。
 トンボは、ヤゴの時代を覚えているのか。
 それはわからないが、とにかく、それほどの変化は、人類史上、どの
時代の人間にも起こっていない。
 脳は激変していないのだ。
 今の私達の脳だって、無知のままなら、日蝕が起これば地球が滅ぶと
逃げまどい、天災が起これば天の怒りだと地に振れ伏し、太古の人達と
同じ反応を見せるだろう。
 幸い、科学の進歩などの力も借り、正しい思考を積み重ねることで、
放っておけば太古とさして変わらぬままの脳の初期設定を進化させられ
ているだけ。
 でも、脳は変質していないので、今の脳で行える思考には限界がある
だろう。