脳の限界

 このところ、言葉から精神へと考える対象が向かっているのは、この
世の事件や人の腐敗に、暗澹とさせられ、心が翻弄されるのは、確たる
精神の拠り所がないせいではないか、とそれを探しているからだ。
 そんな中、池田晶子を知った。
 生きるとは。
 死ぬとは。
 真剣に考え出したら頭がおかしくなりそうな、しかし人間の根本問題
を、一生のあいだに一度も考えることなく、ただ単に長く生きればいい
という人生は、それで本当に幸せなのか、と挑発してくる彼女の物言い
が私の感性に合い、彼女の著書を読み漁っているうちに、心が落ち着く
ようになった。
 たとえば、老人が、
「歳を取ったら誰でもこうなる、そのうちわかる」
 と言っても、若者は聞き流すだろう。自分がその年齢に達して初めて、
ああ、こういうことだったのか、と老人の言葉を納得する。
 ただ、死者はこの世に生きていない。彼らは、私達に死後の世界を教
えてくれる先達になれず、私達は死後の知識を持てない。
 が、そもそも、私達は死を知らない。臓器をほしい時だけ脳死を心肺
停止に優先させるいい加減さからも、それはわかる。
 生の始まりもまた、定かではない。まさか、それがわかっているから
合法的な堕胎の時期が決められたわけではなかろう。
 わからないことをわからない、とするのが正しい精神のあり方。 
 去年は高野山の開創千二百年で、雑誌の別冊版として発行された高野
山の特集雑誌を買っておいた。いつか行く日のためだが、それをパラッ
とめくって、驚いた。
 空海の『秘蔵宝鑰(ほうやく)』の教えの一つが紹介されている。
「生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始めに暗く 
 死に死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」
 人は何度生まれ変わろうとも生の始まりを知ることはなく、何度死の
うとも死の終わりを明らかにできない。
 千年以上前にすでに喝破されていたとは。
 当時も今も、それ以上は解明できない私達の脳、という証拠だ。
『百三歳になってわかったこと』の中で、篠田桃紅は、
「生まれて死ぬことは、考えても始まらない。」と書き、「人の領域で
ないこともある」と補足した。
 じゃあ、どうする。
 どこから来て、どこへ行くのかわからなくても、今ここに存在してい
る私達。その奇跡。
 ゆえに、私は、私だけはちゃんと生きる、と言った池田晶子
 そうだな、と私は思った。
 なぜ、こんな事が起こる、と人由来の現象に愕然とさせられることが
あったとしても、人の生死の不可解よりは小さき現象。
 もう大丈夫だ。