言葉と意味

 たとえば「青」と言う時、その単語から想起する色は他人も自分と同
じ色だ、と思い込んでいることはないだろうか。
 でも、目の覚めるようなロイヤルブルーだったり、空色に近い明るめ
の色だったり、人によって違うはず。
 あるいは、そもそも誰もが同じ色を思い浮かべているとは思っていな
いが、ここを越えたらもう「青」とは呼べない、という境界線内に留ま
る色を想像していることは間違いないから、それでいい、と寛大な精神
になっている。
 私が「カーキ」という言葉に不安になるのは、この言葉が指す純粋な
色がわかっていないし、これは「カーキ」ではなくて「アーミーグリー
ン」だ、と判断できる境界線もよくわからなくて、だから、「カーキ」
という言葉におろおろさせられるからだろう。
 私が買ったスカートは、「カーキ」と言わず「錆利休」(さびりきゅ
う)と言えば、誤差なく想像してもらえそうだ。
 夏には、やっぱり爽やかな青系。
 そういう色ばかりを着る知人を見てそう思い、私も真似たいと思うの
に、新たに買ったスカートはカーキ系で、一体、なぜ。
 でも、店員からその色を勧められたのは、その日、私が「柳緑」(り
ゅうりょく)のパンツに、トップスは黄色と黄緑の柄物を着ていたから
でもあった。
 そして、私は、強烈な太陽の日差しの下では綺麗に見えないという持
論を展開している割りには、見回してみると、「根岸色」(ねぎしいろ)
のパンツ、「榛摺」(はりずり)のハット・・・など、その手の色を結
構持っている。
 希望と現実のこれほどの乖離。
 なぜ。不思議だ。
 これはもう、現実に私が選んでしまう色が私に親和する色、と諦める
しかないのかもしれない。
 ところで、私が色を表わすのに日本の伝統色を用いたのは、その方が
より的確に伝えられると思ったからだ。
 信号は、本当は「緑色」なのに「青」と言う。昔、緑のことを「青」
と言っていた名残だと聞くが、つまり、「緑」という言葉が生まれるま
で、我々に「緑」と「青」の違いは存在しなかったのである。
 言葉無きあいだは差を認識していても認知できていない。ただし、ひ
とたびその言葉を知ったら、その言葉を知らなかった認識には戻れない。
「言葉は万物を創造する力がある」と述べた哲学者、故・池田晶子の指
摘が思い出される。
 ところで、一つの単語が幾つもの意味を有する場合、自分はこういう
意味で使ったし、そのとおりに相手に伝わった、と信じたら、そうなら
ないことがある。
 私にとっての「カーキ」色。
 それから、たとえば、「ずるい」という言葉。