妄想にも現代的精神を

 仏教が説くところの、空。
 スピリチュアリストが言うところの、非二元、ワンネス。
 そういう宇宙の根源を、私自身は体験したことはない。
 しかし、体験したら、みな、それを広く知らしめたい情熱に駆られるら
しく、おかげで、ひたひたと人々の知るところとなってきた。
 新たに選ばれ、体験する人も出てくる。
 数は少ないがそういう人達を選び出すのがこの世を作った何ものかだと
して、そのおかげで、人間は、訳もわからずゲームの世界で踊らされるマ
リオとは若干違った優位性を与えられたことになったとしたなら、その粋
な計らいはありがたい。
 ただ、我らが脳は、渡り鳥たちが道具なしでも目指す方向を間違えない
ような方向感覚を有していない。
 犬のような鋭い嗅覚もない。
 つまり、体験したと思ったこの世の発端、あるいは死んで行き着く先は、
人間の脳の限界内の理解にとどまるのである。
 それでも、空や非二元の概念を理解できる能力はあるので、もしかした
ら私達はいいように操られているだけかも、と疑ってみるだけの賢明さは
発揮できよう。
 希望だ。
 だが、平和よりも、対立、反目、裏切り、戦争などがいや増すばかりの
ような現実を見ると、そういうことに胸を痛める善き人達が、まずは個人
から、ということで、そういう志向の者同士が集まり、さらに高みを目指
そうとする場合、覚醒した自分達と、そうでない世間の人達、という対立
の構図を結局は生み出すだけになってしまう。
 その罠にはまらず、かつ、死んだのちに魂の平安に行き着くのではなく、
今のこの世を、すでにあの世のごとく極楽にできるならば、そういうゲー
ムオーバーこそ人間の勝利となるであろう。
 自分は目覚めた善き人、と思っていたのでは気づかないまま見落として
しまう、自身の内に眠る、誰かを差別したい、無視したい、蹴落としたい、
というような気持ちの種。それが万が一にも芽を出した時に、正しく振る
舞えることが重要になるかもしれない。
 証明できないから妄想、という前提に立ったということでいいから、そ
こに現代的な理屈の光を当てると、かような妄想を閃いた次第。
 ちなみに、この理屈の光で別の事象を見てみたら、これまではスーッと
聞き流していた、と言うか、そうだと信じてもいいと思っていた事も懐疑
的に思われてきた。
 人は死ぬ間際に自分がしてきた善いこと悪いことを走馬灯のように見せ
られる、という一件である。
 誰が、何を善とし、悪と判断するのだろう。