善は、悪かもしれない

人は、死ぬ間際に自分自身の一生を走馬灯のように見せられる、とい
う話。
 もしそうであるとしたら、次々流れる一場面一場面ごとに、満足した
り青ざめたりして、心にとっては、せわしない時間になるだろうなあ。
 しかし、たとえば、ペットショップで売れ残りの仔犬を買ってきて、
大事に育てた、ということがあったとしよう。
 その犬との関係を思い出さされる場面が流れた時、人間の子供のよう
に可愛い服を着せ、床がフローリングで滑るのは犬の足によくなくても、
まあ、それには目をつぶらせてもらうとして、病気になれば、すぐに動
物病院に連れて行き、天寿を全うさせた、と自己満足が湧き上がってき
たとしよう。
 だが、ペットショップで一番器量が悪く、なかなか買い手が付かなか
った犬であったとしても、ペットショップに並べられる基準には達して
いるのである。
 そこまで辿り着けずに葬り去られる命は多数ある。
 それに、親犬達が置かれた境遇は、どれほど良心的な繁殖業者であっ
ても理想的とは言いがたい、と先日また新聞記事に出ていた。
 ということは、我が家の犬と私、という狭い範囲だけであれば自身の
行動は善であったと言い切れるとしても、少し視野を広げ、その犬の背
景までも考慮に入れると、歯切れが悪い気持ちに襲われることになるか
もしれない。知らなかったおかげの幸せに過ぎなかった、と気づくわけ
である。
 節分の日に、品切れを恐れて大量に作られる恵方巻き。
 正当にお金を払ったし、値段の中にはそういう廃棄の分も含まれてい
るはずで、私は悪いことはしていない、と思って当然ではあるけれど、
それでも、その一本の恵方巻きの背後の状況まで見る視野があれば、胸
を張る勢いは少し弱まるかもしれない。
 で、私は妄想してみた。
 死の際に過去の自分の一生を見せられることになるとしたら、何か一
つ、あれは確実に善き行ないであった、と私が信じて疑わない行為をま
ず見せられ、次に、その私の行為が他人や他の何かにどう影響を及ぼし、
どんな顛末に結びつくことになったか、できれば、私は善と思っている
のだから、その反対の帰結になった出来事を見せられたら、面白いだろ
うなあ。
 悪だと思って悪を行なうのは最低。
 だが、善だとしたり顔になって行なった事が、その影響を受けた誰か
にとっては悪になることもある、と想像できる能力があれば、生き方が
謙虚になる気がするからだ。
 死の間際に気づいても、遅いかもしれないけど。