英語ができない理由

私は日本語を愛している。その前提に立って英語の話をする。
「I am as tall as Tom.」は、
「私はトムと同じぐらい背が高い」と訳す。
 この英語を否定文にすると、
「I am not as tall as Tom.」
 notを入れるだけ。
 ところが日本語は
「私はトムほど背が高くない」
 と大きく様変わりする。
 onlyは「たった」という意味。
 そう習ったばかりの学生が、
「I have only two books.」
 の和訳に挑むと、
「私はたった二冊本を持っている」
 と訳して胸を張ったりする。
 この間違いをしたのは、小学生の時から読書が好きで東野圭吾の本をよ
く読むと言っている中学一年生の女の子だった。
 私が、本当にそうかなあ、と聞くと、
「あっ」
 すぐに気がつき、
「私はたった二冊しか本を持っていない」
 と言い直した。
 ここだ。
 言葉で説明できないけれど、本人の日本語力に訴えかけたら、すぐにま
ともな日本語を引き出してくれるかどうか。
 この能力にこそ、英語の上達を左右する鍵があると私は見ている。
 だが、日本語で「たった」を使う時、たとえば、「今日はたった五人で
す」のように「たった」を文中にはめ込むだけで正しくなる場合もあるか
ら難しい。
 一筋縄ではいかない。
 それでも、私達は、日本語だけを使う場面において大きく間違えること
はまずない。だからこそ、英語という全然文法の違う外野が押し寄せてき
ても、揺るがぬ日本語力を発揮できることが重要になる。
 これが心許ないと、英語の習得が心許なくなる。教えるのに苦労させら
れる。日本語を教えるわけにはいかないからだ。
 ならば小さいうちから英会話を、と考えたくなる気持ちはわかる。
 でも、軸足を日本社会に置くつもりなら。
 先日、友達が役所への申請のことで相談の電話をかけてきた。表題の単
語を読み上げるが、その専門用語の最後の一字が読めないらしく、もごも
ご。そこまで読めたのなら、ああ、この漢字はこう読むのか、と感心する
と同時に読んでしまえそうなものだと思ったが。
 こういうことだ。
 日常生活の重要な場面で困る。
 しかも、日本語は、話して聞いているだけではテニヲハを正しく学べな
い。
 だから書く。たくさん読む。
 そうやって地道に高めるしかない。
 みんなの好きな自己責任。
 でも、ルビが復活したらいいかも。
 昔ほどは手間がかからずできるはずだし。