マダムDとの今後(フランス旅行記)

 今年二月のフランス旅行を思い立ったのは、去年の八月。
 バカンス先から絵はがきを送ってくれたムッシューLに、
「二月頃行きたいんですけど、どうでしょう」
 と返信して、旅の具体化が開始した。
 来週に入ったら、丸一年目になる。
 旅行から帰ってからでも五ヶ月。
 なのに、未だにその思い出を書いている私。
 日記に一番よく登場したのはマダムDだった。
 彼女のことはかなり辛辣に書いたと、自分でも思う。
 それで思い出すのは、テレビで見た、アメリカ映画の紹介だ。
 ある一家の過去のある日のビデオ映像が流れる。次に、その日の夜に
母親が書いた本物の日記が読み上げられる。その手法により、同じ日の
母親の行動と内面が比較できることになる。
 成人した子供達は、母親の過去の日記の存在を知って、
「母の日記を読むと、家族の中で、母は全然幸せじゃなかったみたいに
受け取れる。そんなことはないのに」
 と呆然と嘆いていたのが印象的だった。
 でも、私はわかると思った。
 母親の気持ちがわかるし、彼女に共感できる。
 書くとは、心の奥底の気持ちを書くことだから。
 人の目に写る私が楽しそうでも、その時の私の心の中を私自身が分析
すると、仄暗くて陰気な感情があばき出されることもあり得る。
 人目に楽しそうに写った私は、私自身。
 ただ、それはもう、誰の目にも、私自身の目にも明らかな事実なので、
私が私自身のために書くのであれば、私がまだ確認し切れていない私自
身の内実をあばきたいと思う。
 それは書くことで可能になる。
 書くことでしか、私はそうできない。
 あばいたら不愉快になりそうな、自分の中の嫌なところ、醜いところ、
汚い心の動きがあるなら、目を閉じずにしっかり見極めたいと願う。
 その結果が私の心に痛いければ痛いほど、書き終えたら、さっぱりし
て、「そう思った、感じた」事実を手放すことができる。
 爽やかな精神を保つことができる。
《心に痛いけど、楽しい遊び》みたいなもんかな。
 ということで、私の書きっぷりから、マダムDとはあとは絶交あるの
み、と読み取られたとしたらまったく的外れで、私は、私がなぜ彼女の
言動に振り回され、苛つかされたかを見極められたので、彼女になんの
恨みもない。
 今後は、注意して、マダムDと会うなら二人きりにすればいいのであ
る。
 あるいは、私が、彼女の友人の輪に交じらせてもらうのならOK。
 でも、彼女を、私の友人の中に入れない。
 苦い時を経て、彼女との関係が深く育ったと感じている。