心を整える

「受験はなぁ。人を落とすためにある」
 私が個人的に英語を教える中三の女の子が、学校で担任からそう言わ
れたことを、私はその子の作文で知った。
 私は、英語の宿題は出さないが、毎回、四百字詰め原稿用紙一枚を渡
し、好きなテーマで国語の作文を書いてもらっている。
 外国語学習の基礎は日本語だと信じるから。
 それも「読み書き」。
「読む」ことを一緒にする時間はないので、せめて「書く」ことに取り
組んでもらおうというわけだ。
 お喋りは、テニヲハを間違っても、前後の文脈に整合性がなくても許
容されるが、「書く」となったらそうはいかない。書き続けているうち
に、そういうことに神経が使えるようになってくれたら。
 ところが、作文だと、お喋りでは触れないことを書いてくれたり、自
分自身の気持ちにもう一歩踏み込んだことを書いてくれるので、もし仮
に作文が英語にはなんの役にも立っていないとしても、「書く」ことで
自分自身の心と向き合う、その世界の豊かさを楽しんでくれているなら、
それはそれで嬉しい。
 さて、担任のくだんの言葉である。
 通常、私は作文を添削しない。コメントも言わない。
 が、この時ばかりは、次の時に彼女に言った。
「先生は間違ってる」
 人にはそれぞれ考え方があり、頭ごなしに批難すべきではなく、まし
てや本人が反論できない場所でそうするのは卑怯だ、と考える私ではあ
るが、この論理は明らかに破綻しているし、こう言われて、その子は、
「そんなこと言わないで〜」
 と気持ちを作文に綴っていた。
 不当に怯えさせられた彼女の心をそのまま放置するなんて、できない。
 だって、「受験は人を落とすためにある?」
 無理じゃん。
 都内の小学校で「ママ友会合」禁止令が出された。
 他人の子の親になりすまし、合格した私立中学校に辞退の電話をかけ
た親がいたというのだが、この親などは「受験は人を落とすもの」教信
者の面目躍如ということになるのではないか。
 けれども、一体、何人の足を引っ張れば、自分、あるいは自分の子供
が合格できるのか。
 他人の学力は、自分には手のくだしようがない。
 だから“破綻した論理”。
 思考は、心にパッと浮かんだものが正しいわけではない。
 口にする前に吟味する。
 必要があれば修正する。
「心を整えよ」とは、そういうことであろう。 
 幸い、中三の女の子は、今回、作文にこう書いていた。
「いっぱい勉強してまわりの同じ高校を目指している子よりも実力をつ
けたいと思います」
 担任の耳に、届け。