情報欲

 前回、私は書いた。
 ----お喋りは、テニヲハを間違っても、前後の文脈に整合性がなくて
も許容されるが、「書く」となったらそうはいかない。
 こう書いたなら、同じ紙面にテニヲハのミスは厳禁。
 よって細心の注意を払うも、ミスするのが世の常。
 そうなった・・・。
 ブログの方はこっそり修正しておいたけど。
 メルマガの編集画面で、最後の最後に文章のリズムからテニヲハを変
えたら、それと連動して直前のテニヲハも変えなきゃいけないのを忘れ
た、とか弁解はあるが、ミスはミス。
 けど、もう済んだこと。
 軽く流して、次に行こうかな。
 この「流す」という感覚は、今年の私のテーマである。
 本は図書館で借り、心に響いた箇所に付箋を張ってスキャナーでパソ
コンに取り込む。インターネット上の情報もPDFフィアルで保存。い
くら増えても嵩張らない。
 しかし、いつか役立ちそうだと切り抜いた新聞記事は溜まる一方で、
一念発起して、いらなくなったコピー用紙の裏に貼り付けてファイルに
保存してみたら、貼り付けるのに手間がかかるし、ファイルはすぐにパ
ンパンに。
 が、他に良い方法がないのなら、今あるファイルで収まるよう、新し
い記事と古い記事を入れ替えたりして、新陳代謝を図るとするか。
 三が日をそれに当てよう。
 けれども、着手する前に自問した。
 そんな風に手間と時間をかけて保存した情報をこれまでに一度でも活
用したことがあるだろうか。
 答えは「皆無」。
 あらま。
 これじゃあ、いつか着られそうだと思って捨てるに捨てられない服と
同じじゃない。
 仮に「あの記事を読み直したい」と思う日が来たとして、その記事の
存在を思い出させてくれた言葉をインターネットに入力すれば、最新の
情報が手に入る可能性は高い。一方、読んですぐに記憶から消え去った
ような記事は、保存しておく意味がない。
 情報も生もの。
 その時に味わい尽くして、いさぎよく流してしまう。
 それでは進歩しないと思っても、読む前とあとでは、きっと私は何か
が変わった。そう信じてみてはどうだろう。
「足りない、まだ足りない」と求め続けるのは、満足には決して到達で
きない茨の道。
 情報欲や知識欲は物欲より高尚で、物欲とは違う。
 なんとなくそう思って、強欲になっていたのかも。
 でも、どうして「まだ足りない」と私は私自身を駆り立ててきたのか。
 不安だったから。自分に自信がなかったから。
 たぶん、そう。
 でも、そうと気がついたので、これからは、うまく流していけると思
う。