愛語で、自分をバージョンアップ

 英語の家庭教師先に、夜の七時半頃、自転車屋さんが来た。
 その家の母親が勤めから帰って来た頃を見計らって代金の回収や修理
に来てくれるらしく、その日の目的は小四の末っ子の一輪車の修理。
 彼女は英語が終わっていたので、コートを羽織り、自転車屋さんと母
親のあとを追った。
 が、すぐ戻ってきて、
「おじさんが、寒いから帰っていいよって」。
 すかさず高一の長女が、
「邪魔やって言われたんやん」
「でも、言い方が変わると、印象が変わるんちがう」
 私が言うと、
「ほんまにそうやなあ」
 素直に共感してくれたが、私達の会話を小耳にして、末っ子が気分を
害したのではないかと様子を見ると、にこにこ、鼻歌。自転車屋さんの
思いやりに気をよくしたままでいるらしい。
 自転車屋さんの本音は確かめようがないが、その言葉が愛語であった
ことは間違いなく、めでたしめでたし、のはずが、木村藤子の『幸せの
絆』の中で心に引っかかっていた箇所が甦ってきた。
 ある女性が、祖母から「人にはその人が喜ぶようなことを言って良い
印象を与えなさい、あとで背中に向かってあっかんべーをしたっていい
んだから」と教えられ、そのとおりに生きて、みんなから良い人だと思
ってもらえているが、四十を過ぎた今、孤立して淋しい、と相談してき
た件を取り上げ、木村は、本音を見抜かれたのだ、人をうわべで騙した
り陥れようとすると心の鏡が曇り、それでも気づかないと脱出できなく
なる、と戒めていた。
 でも、相手の心にちょっと媚びるように本音を脚色するのが愛語じゃ
ないの・・・。
 そんな私の疑問は、しかし、別の本を読んで、どこが未熟な勘違いだ
ったか、わかることになった。
 愛語を、けろっと口にできる時と、できない時がある。
 できる時は、相手を自分よりずっと下に見ていて精神的に余裕がある
か、人格ができている場合。それでも、どうしてもすんなり愛語を口に
できない時は来るはず。
 その時、なぜ口が裂けても言いたくないと感じるのか、自身の心の中
を見つめると、嫉妬や妬みのような薄暗い感情を見出すだろう。それを
理性で退治し、無理にも愛語を口にする。
 心が痛む。
 痛みの分だけ、心、つまり本音が清らかになる。
 本音が上等になると、そこから生まれる建て前も上等になり、本音が
限りなく建て前に近づいてゆく。
 愛語は、それを言おうとして心がきしむ時、自分自身にとってもっと
も貴重な体験になるのではないか。