外国語が堪能なのと、その国に住むのとでは、決定的に違うことがあ
る。言語の軸足がどこになるかだ。
前者の軸足は、母国語。
後者は、住む国の言葉。ゆえに母語が邪魔になる、という感覚になる
こともあろう。
もっとも、自国では食いかねるという経済的理由で他国を目指す人は、
言葉で難儀するぐらいどうってことないと思うかも。
その国の文化や人に憧れ、留学から国際結婚という道を辿ったりする
人の方が、
「自分の国の言葉なら、全部わかるし、自己主張もできれば、丁々発止
と議論もできるのに」
と歯痒くなりそう。
昔から、生まれた土地をあとにし、憧れの地に根を張る人はいた。北
海道だって、そういう人達のおかげで拓けたのだし、そういう例は世界
中に散らばっている。その際、移住者の勢力が現住の人達を上回れば、
言語地図を自分達の言葉で塗り替えることもできただろう。
もうあり得ないけど。
いや、いずれ世界は一つの大きな国のようになるしかない、とするな
ら、遠い将来、どこかの国の言葉が世界標準にならないとは限らない。
ニホン語が消える・・・。それは嫌だ。
ニホンに住む、片親がフランス人の子がフランス人向けの学校で学ぶ
と、その大半がフランスの大学に進学する。特に女の子はそう。フラン
スにも男女の賃金格差や差別はあるが、まだましだし、労働環境が良い
からで、その道を言葉のせいで諦めなくて済む教育を与えてくれた両親
に感謝して、その後の人生の軸足をフランスに移す。
一方、フランスに住む、片親がニホン人の子の場合。
パリ大学の日本語学科に在籍する男子学生が、母親がニホン人なのだ
から自分をバイリンガルに育ててほしかった、とぼやいていた。でも、
妹はニホンに興味がないらしいから、もし母親が子にニホン語習得をき
つく強いる人であったら、妹にとって辛い子供時代になっていただろう。
英語をなりわいとするニホン人は、母語の習得以前に外国語を学び、
言語的にどっちつかずの大人に成長した人達を見すぎて、我が子は日本
の教育制度に従わせる。子供をインターナショナル・スクールに通わせ
たがるのは、むしろ学生時代に語学や勉強に劣等感があった両親かも。
何が正解なのか。
あとでその子の資質に合わない道を行かせたと感じることになったと
しても、過去の時点で、親たる自分は最大の愛でその道を子のために選
んだ、と思えるのなら、どれも正解なのだろう。
子の幸せを願うのが親心。
それが多彩なだけなのだ。