歯医者にて

 歯科医の入口で靴を脱いでスリッパに履き替えていたら、
「おはようございます」
 少し離れた受付けで声がする。
 誰も返事しない。
 あ、私に言われたのか、と気づいた時には数秒経っていて、返事しそ
びれた。
 でも、受付けに診察券を出す時は、もちろん、ちゃんと、
「おはようございます」
 と言った。
 雑誌ラックから一冊取り、立ち読みし始めたら、初老の男性が入って
きて、彼も、診察券を出す時、受付けの女性から、
「おはようございます」
 と言われたが、彼は無言。
 面と向かって挨拶されても無視するとは、なんたる傲慢。きっと家で
も、奥さんに「飯」「風呂」「寝る」ぐらいしか言っていないんだわ、
と決めつけてしまう。
 私は名を呼ばれ、椅子に座った。
 左下の歯の虫歯の治療である。
 麻酔をされ、一旦、待合室に戻るように言われた。
 無言。
 次に名を呼ばれても、治療中に何かを言われても、無言。頷くだけ。
 あの老人とは状況が違う、という言い訳は通用すると思うけれど、私
の特殊な状況を知らない人から見たら、私は単に不躾な人間に見えただ
ろう。
 あの老人は、今回が初めての受診だったようで、用紙に記入を求めら
れ、その書き方について受付けの人に質問をし、会話していたから、最
初の挨拶を無視したのは、彼なりの必然があったのかもしれない。
 私は、歯を削り、かぶせの型を取り、それが出来てくるまでの仮の詰
め物を入れられたあと、
「上の歯と下の歯で噛んでください」
 歯科衛生士の女性に言われた。
 痛い…。
 虫歯はなくなったはずなのに、中から疼く。
「えっ」
 歯科衛生士が私の口の中を覗き込む。
「ベロを噛んでいますね」
 私が力を入れて下の歯と噛み合わせようとしていたのは、上の歯では
なく、ベロ、いや舌だったのか。
 大人の私に対して「ベロ」という言葉を当然のごとく遣うこの人の背
景はなんだろう、などと関係ないことを思いつつ、
「どうしてもベロが左側に寄ってしまいますね」
 と言われるのを聞く。
 頑張って、舌ではなく上の歯で下の歯の上部の仮の詰め物を押さえる
ことができたが、
「二時間ぐらいは何も食べない方がいいかもしれませんね」
 でも、食べたし、飲んだ。
 コップのお茶は、口の端からぽたぽたこぼれた。
 鏡を見たら、唇の動きは左右非対象。私自身の思う感覚と違う動きを
勝手にする。
 一時的とわかっていても、自分のからだが思い通りに動かないもどか
しさに直面したのである。