ニホン人は泊めたくない

 民泊をしている友が言った。部屋を一番汚く使うのはニホン人だと。
 戸を開けた途端、床一面にゴミが捨てられていたりして、よくここま
で汚せるのものだと驚くそうな。
 で、思い出した。
 パリのアパルトマンを引き払って帰国する際、ニホン人向けの新聞に
家具や台所用品を格安で売るアナウンスを出したら、賃貸アパルトマン
を持っているニホン人から、そこに置くつもりだと電話がかかってきて、
雑談になった時に彼女が言った。
「ニホン人には貸したくない。部屋の使い方が汚すぎる」
 この時も、聞き間違えたかと問い直したが、
「特にニホンの若い女の子がひどい」
 と断言。
 五輪のサッカー場で、試合後、ニホン人だけがゴミ拾いを始めたとい
う美談が世界中に知れ渡ったのでなかったか。
 インターネットで調べたら、リオネジャネイロ五輪の時のことだとわ
かったが、国内スタジアムでは、試合後、椅子の周りはゴミだらけで、
これが正しいニホン人像なのだ、と嘆くブログに出くわした。
 あ、なるほど。
 いや〜な感じである。
 家の中ではそんな傍若無人ではないはずだから。
 あるいは、床になんでも捨て、洗面台に長い髪の毛が落ちてもそのま
まにしておいても、甘い親が下女のように、全部、後始末しているのか。
 別にそれでもいいのである。一歩外に出たら、まともに振る舞うので
あれば。
 もし、ちゃんと金を払っている、と言うとしたら、そういう人は哀れ
である。
 ゲスいから。
 自分の都合で表と裏を使い分けているから。
 だが、生きるとは、人の目のあるなしにかかわらず、凛と一本筋の通
った精神を生きること。
 そう生きていれば、不快なことにあっても動じないが、そうでない人
は、すぐに心が揺れ、いじけ、あるいは逆恨みして、幼稚な自身の精神
に振り回されて、この世を嘆くことになる。
 パリからアルプスにスキーに行っていた頃、スキーガイドが、知り合
いの客のアパルトマンに泊めてもらえば安くつく、とパリジャンを紹介
してくれ、そうなった。小切手で支払ったが、帰る時は、来た時以上に
綺麗にして返さねば、と神経を使わされ、これならホテルの方が気が楽
だと思った。
 民泊をしている友は、綺麗に泊まるのは白人だ、と言う。
 そうであろう。
 彼らは、直接の知り合いでなくても、当然のように部屋を提供してく
れる。キリスト教精神だ。それが成立してきたのは、大前提に、自分の
部屋より綺麗に使う、という了解があるから。
 ニホン人は壊れたのか、もともと壊れているのか。