「未来の自分」と考えれば

 フランスからメールが来た。
 何年か前に文通が途絶えた友だ。
 メルアドを整理していて私のが出てきて、メールしてみたそうな。
 実は私も少し前に彼女を探したがメルアドが見つからなかったので、驚
いたし、素直に嬉しかった。
 人との繋がり。
 では、人と繋がらない時、人はどう感じるのだろう。
 認知症の第一人者だった医者が、自身、認知症になってからの日々をカ
メラが追った番組を見た。
 九十歳。
 彼はデイケアに行かされたが、もう行かないと拒否。
 デイケアは、彼が現役時代、認知症患者の家族の負担を減らすため、積
極的に利用を奨励していたのだが。
 叔母に話したら、
「なんぼ人がいても、木ぃみたいなもんやもん」
 私も同感。
 そこにいる誰かと心の繋がりがなければ、何人いても単なる木。おまけ
不本意に強いられる歌や遊戯。孤独は深まる。
 一人でも知り合いがいたら景色は変わるが、認知症デイケアに行かさ
れる人にそれは高望みだろう。
 以前、認知症ではないが、その手の所に行ったか施設に入所している女
性が、自分より手のかかる人に職員が優しく接しているのを見て、羨まし
かった、私ももっとかまってほしかった、と新聞への投稿で素直に真情を
吐露していたが、その気持ちもよくわかった。
 せめて職員と友達みたいになれたら。
 集団の中で、それは無理。
 似たような人をひと所に集めるのが一番効率が良く、経済的にも成立す
る。
 が、人の心は効率で処理できるものではない。
 順応できない人も出てこよう。
 若者なら不登校
 ならば、デイケアにも不登校、と考えればいいか。
 それをわがままだと言うことは、私にはできない。
 むしろ、そりゃそうだろう、と思う。
 喋るロボットが実用化しているが、高齢でも外に出られる人は、家の中
で相手をしてくれるロボットではつまらない。
 そういうニーズの多さを知り、外出を促す一助となるロボット開発に着
手した人がいるそうだが、やはり、人は人と繋がってこそ。
 若い人の善意が必ずしもそれを必要とする年上の人達のニーズに合致し
ないのは、当事者の声が本当には把握できていないせいもあるだろう。
 まあ、新築の建売りは今も玄関まで三段ほど階段があるのが主流。
 親や祖父母に学ぶなら、住人が、いずれその三段に苦しめられる日が来
ると想像できるだろうに。
 坪数という言い訳はなしで、工夫はないのか。
「未来の自分」という本気の視点があればなあ。