記憶を選べない

 今日、大阪の地下鉄で座っていたら、世界に脅威を撒き散らしている新
型ウイルスの発祥国から来たとおぼしき夫婦とマスクをして咳をしている
子供が乗ってきた。その女の子は私から一つ置いた席に座る。妻は私の横
に。
 私は、どうせ次の駅で降りるので立ち上がり、ドアの前に立った。
 ドアの右半分には車椅子。その女性を介助をしている人も席から立ち上
がった。
 彼女達も降りるんだ。ちゃんと降りられるのかなあ。
 ホームにはすでに地下鉄の職員が固い板を持って待ち構えていた。
 私は、車椅子がホームに降りるのを待ってから降りた方がいいのか迷い、
足を出すのが遅れた。
 と、腰の少し上を後ろから突かれた。
「突っ立っとったら降りられへんやろ」
 マスク姿の小さい年寄りが私と車椅子の間を強引にすり抜ける。
 私はすぐさま澄んだ声で言い返した。
 いや本当に、私の声は実に麗しく澄んでいたのだ。
「降りるやろっ」
 響き渡る私の美声。
 降りない人間が駅に着いてもどっかとドアの前に陣取っているわけはな
い。何かあるのかも、と考えてこそ普通だろうに。
 こういうことがあると悔しい。心が不愉快な気分に染まる。
 先日、知人が、母親が認知症になってから、電車に乗ると、降りる人を
待たずに中に入って座ろうとするようになった、自分のことしか見えなく
なるのかなあ、と語っていたことが思い出された。
 嫌なことがあると、その類いのことを脳は記憶から引っ張り出してくる
のか。
 だからこそ、良きことに遭遇したい。そうすれば、良い思い出がぽろぽ
ろ蘇る。
 でも、今日はそうはいかない。
 以前、繁華街を歩いていたら、前から来る男がさっと右手を斜めに出し
たが、私が反射的に手を出してその手を払いのけたので、すれ違いざま下
劣な行為の餌食になることを阻止できたことがあった。
 しかし、高校時代は体が硬直するばかりだった。
 満員の地下鉄で立っていると、隣の男が、誰からも気づかれない巧妙な
動きで私のかばんをずらし、私に触れた。だが指は動かさない。じっと当
てているだけ。
 身がすくむ。でも、声は出ない。動けない。
 座っている時も、隣の男が同様にひそやかに指を動かし、私に触れた。
 母が一緒にいたが、やっぱり助けを求められなかった。
 普段は忘れていても、決して消えたわけではない記憶。
 心の後遺症。 
 覚えていたくても忘れてしまうことも多いのに。
 なぜ記憶は思いどおりにできないのだろう。