バラエティで体に通電を笑う面々

 途中から見たコマーシャルを、頭から見たい、と思っていたら、そのう
ち遭遇できることはままあるから、テレビで似たような内容に遭遇するの
は、さほど珍しいことではない。
 よって、私が、三回も、と感じたのは、回数よりも、番組内の仕掛けが
衝撃的だったからだ。
 心から消えない。
 それも、
「見たくなかったし、これからも見たくない」
 という気持ち。
 最初に見た番組では、出演者の椅子に仕掛けがしてあり、出演者が間違
った回答をすると電流が流された。
 当事者が飛び上がる。
 痛いと言いつつ、ヘラヘラ笑う。
 が、傍観者の私は青ざめた。
「これは駄目だろう」
 人の体に通電・・・?
 微量だからいい・・・?
 だったら、その企画を通した者どもが自分自身の体で楽しめ。 
 そう。
 自分がされたら嬉しいか喜べるか。
 それが、判断する際の心の拠り所になるのではないか。倫理である。
 微量で人体に影響がない範囲なら笑いを取るために許される、とする発
想は、さらなる笑いを求めて出力電圧を上げていい、という未来を含んで
いる。
 怖い。
 父親が我が子に犬の無駄吠え防止首輪で虐待した事件。
 意図的な無視や暴言が加速して、人を死に追いやるいじめ・・・。
 人体への通電は、それらと同じ根を持つ発想だ。
 バラエティ番組だから許されると言う人は、躾だった、仲間内のじゃれ
合いだった、という弁明を認める立場に立つことになる。
 読売テレビの情報番組に、芸人が町を歩いて人々の迷いを聞く、という
コーナーがあり、ある店員が、顔見知りで言葉も交わす人が男か女かわか
らない、知りたい、と言ったら、カンペの指示で、芸人が、最終的に当人
に免許証を見せてもらい、白黒をはっきりさせた。
 それが放映されると人権侵害だとおおごとになり、関係者が雁首揃えて
頭を下げる事態になったが、番組中にちゃんと危惧を表明できなかったの
がいけなかった、とアナウンサーの中谷しのぶが涙ながらに謝ると、彼女
はそこまで自分の意見を言える立場にあるのか、と可哀相だった。
 だって、もしそうなら、バラエティ番組の司会者が、通電に怯え、通電
されて痛がる出演者のために抗議するでもなく、にやにや笑って次は誰か
という態度でいたのは、公開で、自分は通電虐待賛成者だと表明したこと
になる。
 ところで、もう一つ、近頃のテレビの違和感は、謝罪する人が何秒頭を
下げたか、その秒数を取り立てることだ。
 カタチが重要なの。心はいいの。