鈴虫

 スーパーの花屋に並んだ鈴虫のケースに、するする吸い寄せられるよ
うに近づいた。
 私の部屋は、ドアノブにはモビールの鈴、窓には南部鉄の風鈴、椅子
の肘掛けには東南アジアのどこかの国の鈴のアクセサリーがぶら下がっ
ていて、ドアを開けたり、窓から風が入ってきたり、あるいは椅子に座
と、それらが鳴るのだが、それでも足りなくて、カナリアを飼っている。
 その上、鈴虫ですと。
 ううん、ちょっと見るだけ、と自分自身に言い聞かせ、一つずつ持ち
上げ、もし買うとしたら、という目線で、中の鈴虫を見比べ始め、持っ
ていたのを置こうとしたら、え?
 いつ、どこから現われたのか、カブト虫のメス。
 ケースを置くに置けない。
 その店でカブト虫は売っていないから、ますます摩訶不思議である。
 私は、一瞬、これも何かの縁、と家で飼うことを考えたが、入れ物や
らなんやかやを準備せねばならず、そこまでする気になれないことが自
覚できたおかげで、鈴虫を買う決心がついた。
「なんで、そんなものにお金を遣うの」
 母が嘆息する。
 夏休みに旅先でカブト虫を捕った。
 蛍は、蛍狩りで捕った蛍を、父が網戸の網を張って作ってくれた大き
な虫籠で飼った。
 池で捕っためだかは、たくさん子供を産んでくれたなあ。
 そういう思い出がある生き物達は、私も、お金を出して買う対象とは
みなしづらいが、鈴虫は、自然の中に捕りに行った記憶がすっかり消え
ていたため、店で買うことに抵抗が起きなかったのだろう。
 母は、鈴虫の籠をカナリアの籠の横に置いて鳴き競わせてみたら、な
どと言い出し、さっき文句を言ったのはなんだったのよ、と言いたくな
るけれど、家族によってもたらされる不測の事態にうろたえても、すぐ
に受容する態度に切り替われる、と考えるなら、その母性は評価できる
かも。
 さて、音色を楽しむべく購入した鈴虫だが、玄関に置いて寝たら、夜
中鳴き通し。昼間聞く分には涼しい音色なのに、夜は、その意外な単調
さが神経に障って眠りが妨げられ、翌日は、外に出すことで意見が一致
した。
 すると、昼はそれほど鳴かないから、鈴虫なんて家にいないような状
況になり、それはそれで、なんか納得いかない私。
 けれども、早朝、夜の続きでまだ一心に鳴いているのを聴くと、ただ
ただそうして鳴くだけで二、三ヶ月の一生を終えることが、与えられた
宿命を本能的にまっとしているだけだとわかっても、なんと真摯な生き
方よ、と感心されるのだった。