「バカ市長」訴訟に学ぶ

 先週、大津地裁の判決で負けた原告、彦根市の市長がテレビでコメン
トするのを見て、初めて「バカ市長」訴訟のことを知った。
 新潮社を控訴すると話す獅山(ししやま)市長がニタニタ笑っている
ので、私は戸惑う。
 この人は遊び半分で裁判しているの。
 新聞やインターネットで調べ、そうじゃないとわかったけれど、二千
二百万円もの損害賠償を求めずにいられないほど怒っているなら、それ
に見合う表情をしないと、本心のわからぬ胡散臭い人物に見える。温厚
そうな外見で同情を引く作戦だったとしたら、彼は失敗した。
 一方、弁護士は、京大を出て、検事、弁護士にもなった原告がバカな
はずがない、と真顔で言うものだから、そう言うしかない雇われ弁護士
の悲哀か、弁護士自身も同意見かと、いらぬ方向に関心が向かう。
 が、それは市長の本音ではあった。
 こんな立派な学歴・職歴の自分がバカなわけがない。
 バカでないなら、軽くいなして済ませられただろうに、自分の意見で
はなく人格をけなされたと受け止め、裁判に持ち込んだ。
 なんとも大人げない。
 私は、家庭教師をしている中学生のテストが返ってきたら、クラスで
何番だったか知りたいが、クラスで一番の人さえ公表されないという。
 運動会では一等、二等・・・のアナウンスがなくなったとか。
 競わせておいて、きちんと結果の報告がされないと、気持ちが不完全
燃焼のままだと感じるのは私だけか。
 誰もが一番にはなれない。でも、誰かが一番になる。
 大切なのは、その事実を押し隠し、みんな横一列のあり得ぬ幻想に浸
ることではなく、歴然とできてしまう序列のどこに自分が位置するのか
を、驕らず、卑下せず、受け止める心を育てることであろう。
 他者に対しても、同じ目線を習得する。
 間違っても、成績が優秀なら人格も優秀と勘違いしない人間になる。
 ところが、そこに時間を割くどころか、みんなを劇の主役にするよう
なまやかしに走り、真に人格豊かな人間に育てようとしない。
 六十六歳の市長の学生時代、かような似非平等主義が教育現場にまだ
蔓延していなかったとするなら、これから世に出る秀才達は、凡庸なふ
りをして最後に抜きん出る必要から、より狡獪で、ますます学力至上主
義の、バージョンアップした獅山二世、三世になるかもしれない。
 今回、市長は憲法を盾に自説の正当性を訴えたが、こういう人が法の
抜け穴を見つける達人になることも忘れないでいたいと思う。