脳死判定の透明性

 裁判員制度が始まるまで、もしかしたら自分が選ばれるかも、と真実
味を帯びて考える人は少なかったようだが、スタートした途端、本音が
徐々に語られ出した。
 自分に人を裁けるのか。
 そういうことを専門に行なうのが裁判官じゃないの・・・。
 この制度を必然として生み出した国の人達とは、歴史も国民性も違う
ことがあぶり出されてきたわけだ。
 臓器移植も同様ではないかと、私は見ている。
 脳死は、自分や身内が当事者となる可能性が低いため、自分自身に引
き寄せて考えることが一層しづらい。
 それでも、私は、「脳死は人の死」という言葉に引っかかっていた。
 ここまで脳がやられたら、人を人たらしめている特質はなくなる、と
言われても、人は、人である前に動物。なのに、どうして動物として死
なせてくれない。
 だいたい、他人の死で自分の命をあがなおうという発想が、グロテス
ク。
 しかし、感情で結論を導き出すのはよくない、と一冊だけ本を読むこ
とにした。
 一九九九年発行の『「脳死ドナーカード 持つべきか持たざるべき
か』。
 臓器提供者の遺族にも取材し、多面的な切り口で構成されたムックだ
が、これを読んで、私は自分自身のお目出度さを思い知らされた。
 脳死に賛成か反対か。その理由は。
 そこが争点だと思っていたら、それ以前の、脳死判定の現場が非常に
不透明らしいのだ。
 臓器移植には「イキ」のよい臓器が必要で、となると、移植を成功さ
せたい医師は、フライングして「脳死決定」しないとも限らない。
 ごく普通に想像できるからこそ、脳死判定の現場は限りなく透明でな
くてはならない。反対派の目から見ても、これなら判定基準が正当に満
たされた、と判断できる完璧さは、必要最低条件。
 でないと、推進派に都合の良い事実だけが公表されることにもなりか
ねない。
 先日、新たなDNA鑑定で人違いだったとわかり、十七年半ぶりに刑
務所から釈放された菅谷利和(すがやとしかず)さんは、当時の信憑性
の低いDNA鑑定もさることながら、自白が決定打となって足利事件
犯人にさせられた。
 自白の現場に、菅谷さんの無罪を主張する側の目線が許容されなかっ
たせいである。
 臓器移植でも、過去の脳死判定時のカルテがすべては公開されていな
いし、個人情報保護法が言われ出してからは、ますます密室状態が加速
しているとか。
 これでは賛成も反対も真剣に考えられない。
 考えるのは止めにした。