感動は心の栄養

 眠い。
 去年の今頃も、
「眠い」
 と自分で言って、
「春眠暁を覚えず、ですかねえ」
 と自分で納得した記憶があるので、私は春になると眠くなるのかなあ。
 友達の七歳の息子が、私の膝の上に座る。本を読んでやっていたら、
こっくりこっくり。笑ってしまった。
 この子に春休みは楽しいか、と聞いたら、
「楽しくない」
「なんで」
「どこにも連れて行ってくれへんから」
 親に経済的余力がない場合は、そうと察して、子供はそういうことは
言わないだろう。だが、彼の母親は経営者の立場で仕事が忙しいだけな
ので、素朴に不満となるのかな。ただ、子供が五人いるので、末の子の
おしめが取れるまでは、一家で出かけるのはおかあさんが大変だと思う
よ、と私なりの見解を述べる。
「おしめって何」
 ・・・ニホン語ですぜ。
 しかし、寛容に、
「おむつのことよ」
 と言い直したら、
「ああ」
 あとで調べたら、どちらも同じだが、使い分けるなら、おしめは湿る
という語源から来ているので幼児向け。おむつは成人向けになるらしい。
 けど、商品名などはおしめ一辺倒なので、保育士がこの言葉を遣い、
母親も遣うと、子供はそれ以外の言い方を耳にしないから、「それ、知
らない」となるんだろうな。
 私は、小さい頃、毎週末ドライブに連れ出され、中学校に上がる前ぐ
らいの歳には、そういう外出も、父親からカメラの被写体にされること
も疎んじるようになった。
 今の私に旅行の情熱が薄いのは、小さい時にあちこち連れ回されて飽
きたのかも、と思っていた。でも、たぶん、もともと私は出不精なタチ
なんだ。そう気づくと、旅行好きの親の元に生まれた僥倖を感じさせら
れた。小さい時に強制的に私の世界を広げてもらえたのだから。
 しかし、感動は貯金できるものではない。
 凡庸なる日常を溌剌と生きるためにも、新たな感動は必要。
 旅は、知らない土地に身を置くことになるのが、それだけで新鮮な経
験となる。それはわかるんだけど。
 私は、人の心にこそ一番感動させられるのかもしれない。だから、そ
の地で友人と再会できる旅行の方が、単なる名所旧跡巡りよりも好き。
 ところで、『死んで生き返りました れぽ』。
 漫画だが、私は、途中何度もウルウルきたし、涙腺が決壊させられた
し、読み直しても、また同じ所で泣かされて、ここまで心が揺さぶられ
る読み物も久しぶりだった。
 けど、友に紹介したら、「不思議な漫画でした」というクールな感想。
 感動は、人に強要できないのであった。