魚は、塩焼き

 人は誰しも、自分が受け入れたくないことは、するっと心を素通りさ
せて認識しない、ということにかけて天才的な能力を発揮するものだが、
現象は同じでも、これには当てはまらないのではないか、ということが
我が身に起こった。
 話は六月に遡る。
 鯵(あじ)が旬で安かった。
 自分でさばけるけど、頼んだ方が楽か、とスーパーマーケットの鮮魚
売り場の男性店員に依頼。
 二十センチほどの大ぶりの鯵だ。
「塩焼きですか」
 煮付けだと答えて、この日は終わったが、この短いやり取りは記憶に
刻まれた。何か重大なヒントが潜んでいる気がする。
 あ。
 塩焼きは店売りのみ、と私は思い込んでいたんだ。
 で、魚の鮮度が悪そうだし塩がきつそうだから、ほとんど買わず、結
果、我が家のガスコンロは、二つの五徳が火口の真ん中の安全センサー
がない旧式ゆえ、網で焼くという原始的な料理にもってこいなのに、宝
の持ち腐れにしていた。
 数日後、同じスーパーで、十五センチほどの中ぶりの鯵が二尾パック
に入ったのを、内臓を取ってもらおうと頼む際、
「これ、塩焼きにできますか」
 と聞いたら、
「できますよ」
 予期した答えが返ってきて、私は無言でショックに耐える。
 塩焼きは自分ではできない、という長年の思い込みを完全に打ち砕か
れたのだから。
 店員は、店売りの鯵の開きは腹を開いてあるから大きく見えるが、私
が買おうとしているのと同じ大きさだとか、魚は目で鮮度を見ると言わ
れるけど僕らが見るのは・・・とか、魚を焼く時の中火の遠火は、家の
ガスコンロではどう転んでも実現不可能なほどの遠火で、家ではむしろ
弱火でゆっくり焼いて中まで火を通した方がいい、
「でも、これは新鮮やから生で食べてもいいぐらいで、火の通りは心配
せんでもええけど」
 などと教えてくれ、感謝すべきは私の方なのに、
「また、なんでも聞いてください」
 白い帽子を取って、深々とおじぎまでしてくれる。
 家で、網の上に置いたら、火で焦げないよう尻尾に塩を多めに振って
おいたというのは料亭で出されるみたいな職人芸で、いつか真似できた
ら、と写真を取っておいた。
 以来、新鮮な魚があったら、塩焼き。
 鯖(さば)、秋刀魚(さんま)・・・。
 大好きな青魚の季節が到来して、至福の日々だ。
 が、ふと、料理雑誌などから切り抜いて作っているファイルの、魚料
理のを見たら、鯵の塩焼きも、鯖の塩焼きもファイルしている。
 ずっとそこにあるのに、見て、見ていなかった私。
 誰に八つ当たりすればいいんだろう。