トムとジェリー

 図書館の入口はそう広くない。一歩入るとすぐ目の前に「お勧めの図
書」のラック。普段はラックを意識することもなく避けて、本の貸し出
しカウンターに向かう。
 が、その日は雨で、傘がラックの端にひっかかった。本を手にした老
人男性が、本を返すのならもっとカウンターに近づいてくれたらいいも
のを、ラックのそばに佇んでいて、その後ろをすり抜けようとしたら、
そうなったのだ。
 傘が自由になったところで、ラックと男性の狭い間に割って入る。
 と、その男性。私に気づいて、ひと言、
「言うてくれはったら、どきますのに」
 おお、なんという正論。この人は実に素直に思ったことを思った通り
に口にされたなあ、と感心させられた。
 私はぺこっと首を下げ、その言葉、しかと受け取りましたゼ、と合図
するだけで無言を貫き通して、これじゃあ、おぼこい小娘じゃん・・・。
 やっぱ、言葉はちゃんと遣わないと。
 ただ、言葉を百パーセント信頼できるか、というと、そうでないとこ
ろに言葉の歯痒さがある。
 本当はこう言いたいが、相手が傷つくかもしれないからこう言ってみ
よう。すると相手は額面どおりに受け止めて、あっけらかん。こちらは
釈然としない気分にさせられる。
 それなどはまだいい方で、こういう人だと見られたいという願望から
本音と違う意見を口にしているのに、そうと気づいていない場合は、本
人が自分自身に騙されているぐらいだから、他人が本音を読み解くなん
て、無理。
 さらには、個々人の言葉の海、というものがある。
 ガスの保守点検の人が、うちのガスコンロの五徳を見て、油がこびり
ついたらなかなか取れないでしょう、僕が前に居酒屋でアルバイトして
いた時は火であぶってから洗っていました、と話してくれたので、私は、
「ああ、焼き鳥屋で」
「えっ。居酒屋ですけど」
 油がこびりつく、火・・・そこから私の脳は焼き鳥屋をイメージし、
記憶を定着してしまった模様。
 言葉と心が一致しないのは、そのあいだに陣取っている脳がいっちょ
噛みするせいかもしれない。
 じゃあ、何を信じればいい。
 行動だろうな。
 今、私は『トムとジェリー』の再放送を目の覚める思いで楽しませて
もらっている。
 トム、ジェリー、それにほかの登場人物も、言葉を発することはほと
んどない。なのに気持ちが伝わってくる。というか、だから伝わると言
えばいいだろうか。
 言葉を頼らないすがすがしさ。
 第一作目は七十四年も前、一九四O年に放映されたそうである。