思考も、共同作業

 おぎゃあと泣くことしかできなかった子が、そのうち、ちゃんと喋れ
るようになるからくりは、不思議だ。言葉を、その意味するところはこ
うだと説明されなくても、正しく使いこなせるようになるのだから。
 当たり前、ではある。
 だって、言葉を理解するために、意味の説明が不可欠だとしたら、そ
の説明しようとする言葉を、説明するための言葉を、まずは説明する必
要が生じる。しかし、その言葉も、やはり別の言葉で説明されねばなら
ず、そうやって元を辿っていくと、仮に人類の最初の言葉はたった一つ
だったとして、二つ目の言葉を共有認識しようとすると、たった一つき
りの言葉で説明するのは不可能だから、どう考えても、人間は言葉を使
わずして言葉の意味がわかるようにできている、とみるしかない。
 私達は言葉のおかげで理解し合えるはずだが、言葉未満の何かにより、
なぜかは知らねど意味を共有し合えるのでもあったか。
 ということは、言葉は、ますます、所詮は言葉だ、と言えるかもしれ
ない。
 だが、思考は。
 言葉を駆使して編み出される抽象的なもの、ということで、私は間違
えかけたようだ。言葉は主役でなく、言葉を使って生み出す、あるいは
閃く思考であれば、無から有が生み出せるのではないかと。
 しかし、私は、一人、ジャングルの中に孤独に生きているのではない。
 生まれてこの方、さまざまな人達の言葉を聞き、教育を受け、本を読
み、そうやって得たものは、何一つ、私自身が発見・創造したものでは
ない。もし私が新たな思考を生み出すとしたら、そういうどっしりした
土台があるから。それがあって初めて、私自身の新しい発想を付け加え
ることができる。
 そう考えると、私は私であるが、人類という大きな有機体の中の一単
位のような気がしてきた。それも、今この時代に生きている人達だけで
なく、人類発生当初からのすべての人達によって形成された大きな一つ
有機体、だ。
 その中の一単位である私は、誰かの思考に正しさを納得したら我が血
肉とし、その先っぽに私の閃きをそっと付け足す。それは、どこかの誰
かの手に渡り、その人の手で枝がさらに少し伸ばされたあと、次の誰か
に引き継がれるだろう。
 神経回路みたいだなあ。
 中には、害悪に見える神経回路もあるだろう。
 だが、神経回路自身に、それを正しく判断する能力は、ない。
 すべては混在すべきであり、すべては進んでいくのみ。
 しかし、時は進むが、人間そのものは本当は進んでいないのではない
か。