日本語の未来

 書いて推敲したのに、あとで間違いに気づく。
 前回、「ストレス発症がほかに向かわなければいいんだけど」と書いたが、
正しくは「ストレス発散」。
 喋っていたら間違わなかったかなあ。
 けど、「日本語が駄目になったのは、人が文章を書かなくなったから」と
学者の誰かが新聞に書いていたのは正しい意見だと思う。
 日本語は、テニヲハのおかげで言順が緩くても文章が成り立つ。
 私ハ、お茶ヲ、飲む。
 お茶ヲ、私ハ、飲む。
 しかも、主語が自明なら、省いて、「お茶を飲む」でよい。
 英語はそうはいかないし、「ダレソレの」と所有者を明確にすることに関
しても厳格で、日本語なら「彼は部屋にいる」となるところが、英語では
「彼は、彼の部屋にいる」。
 でも、形の制約が多いと、主観の思い込みを阻止できるので、言い間違い
も誤解も減る。
 そういう英語を学べば、じゃあ、日本語は、と考えることになり、日本語
のためにもよい、と思っていたけど、近頃はテレビですら変な日本語が横行。
 語順の自由と、主語の省略。
 そんな日本語を使いこなせない日本人が増えたのか。
 出発する列車の扉を閉める際、以前は車掌が「扉が閉まります」と言った
が、今は「扉を閉めます」。
「扉が閉まる」は、これで完璧。
 一方、「扉を閉める」は、「誰が」が抜けている。
「閉める」は他動詞だから。
 でも、主語を省いたために非常によく似た文章になった。
 理屈をわかっていないと、言葉をなんとなく理解するだけなので、自分が
使う時もなんとなく使い、間違ったりするが、そうなっても気づかない。
 日本人の会話を聞いて日本語を習得する外国人は、大変だ。
 ってひとごとではない。
 高度な理解を前提に成り立つ日本語の使われ方が崩れたら、そんな言語は
誤解と誤読を誘発するから、言葉そのものを信用できなくなり、未熟な言語
に成り下がる。
 だから、書く。
 それも、思ったまま言葉にしたら終わりではなく、時間を置いて読み直す
ような書き方をする。
 そうすれば、話す時にも言葉への意識が働き、
─こういうこと「が」聞くたびに悲しくなる。
─好きなこと「を」邁進していきたい。
 というような言い間違いは起きなくなるだろう。
 ただ、NHKのアナウンサーは、
─ロシアを孤立化「する」狙いがある
 と原稿を読み上げた。
 事前に下読みした時に間違いに気づいても、指摘しないのか。
 そして・・・。
 長い歴史を持つ将棋だ。
─飛車「を」上がる
 自動詞を他動詞として使っているじゃん。
 うーん。
 うーん・・・。