見知らぬ人も知人のごとく

 夜遅く、乗り換えの電車に乗り遅れまいと違うホームに急ぎ足だった
私は、そのホームからのぼってきた男とすれ違った。
「男性」という言葉が遣えるような相手ではないから、「男」。
 だって、こいつ、私とすれ違いざま、ひと言、こうぬかしたのだ。
「邪魔」
 邪魔と言うなら、おまえさんも私にとって邪魔です。
 で、思い出した。
 随分前のことになるが、買い物用の引っ張るカートを持って出かけた
ことがある。色は黒。光沢のある素材が少しはおしゃれっぽいから、い
いよね。買った物を手で提げて持って帰るのは難しい、と予想できてい
たのである。
 人波が増す一方の夕刻、駅に向かう人達の群れは追い抜かすことがで
きない行列のよう。
 と、カートがぐいと前に押された。
 ふり返ると二十前後の男。
 こいつが蹴った、と確信できるも目撃していない。
 悪事は陰でこそこそするしかできなさそうな情けない手合いに見える
けれど、それでも腕力体力は女性に勝るだろうから、私は無言でキッと
睨むのが関の山。
 それにしても、なんでこんなことをするかなあ。
 目障りな物はその状態を招いた相手が悪い、ということなのか。
 もっとも、以前は男達だけであったが、今は、昔の言葉で言えば「乳
母車」の大きく厳つい版を押している女性達が、その大きな物体を迷い
なくまっすぐ押し進めてくる。
 一人颯爽と歩く女性達も、ぶつかりそうになっても道を譲らない。
 若くて世間に揉まれていないせい、と寛容になってあげたいけれど、
十分薹(とう)が立っているからなあ。
 そして、彼、彼女らが、知っている相手にそういうことはしないはず、
と気がつくと、悲しくなった。
 目の前の見知らぬ人は人間として見ていないことになる。
 その狭量さが痛ましい。
 私は占いが趣味で、ゲッターズ飯田のブログも読んでいるが、彼は、
占いが当たる当たらない以前に人としての常識がなければ開運などあり
得ないとか、自分の評価は他人が決める、など、なるほどと思わされる
ことをよく書く。
 確かに、開運はこの色、この食べ物、というような安直な方法でより
良い未来が手に入るなんて、考えてみれば笑止千万。占い師は、多数の
人達の悩みに耳を傾けているうちに、人としてまっとうに考え行動して
いれば、占いに頼らなくても開運人生になる、と心の底で考えるように
なるのかも。
 知らない人にも知っている人であるかのように接する。
 これも立派に開運の秘訣であろう。