ごりがん

 その男子高校生はどうかと聞かれ、私は答えた。
「ごりがんですね」
 素直で反抗的なところはない。だが、言われたことを、時間がなかった
という理由でしてこなかった、という実力行使に出る。
 ところが、
「えー、それ何。聞いたことない」
 私の言葉に反応された。
「どこの言葉」
 明るく笑って言葉が重ねられるから、そんな言葉はない、と私は小馬鹿
にされようとしている。
 そこにいた数名も同調。
 どういい表わしたら正確に伝わるだろうと思ったら、ひょいとこの言葉
が口から出て、よくこんな言葉を知っていたなあと私自身驚かされていた
ので、そう言われたら不安になってきて、口籠もった。
 が、あとで、私達はでんぽうは知らなくてもいいが、ごりがんを知らな
いのは語彙不足になる、とわかった。
 賢い人は。
 こう始めると、ごりがんを知っている人は賢いという話に持っていこう
としているみたいになるが、私が発見した一般論である。
 賢い人は、相手が同じレベルにないと判断すると優しくなる気がする。
ごまめ扱いするのだ。
 子供達は、遊ぶ時、遊びの規則を当てはめたらすぐにつかまるような年
下すぎる子は、その子自身にも告げて、手加減する。
 賢い人も同様だと感じたのである。
 大学生の時だ。
 男の先輩が、
紺屋の白袴やな」
 と言い、意味がわからなくて、
「知らぬことは知りたる人に問うべし」
 を屈託なく実行できる私が、
「どういう意味ですか」
 と聞いたら、
「ん。ああ」
 質問されたことは理解した、でも答えないでおく、という態度を示され
た。
 東京から来た大学生男子二人を詩仙堂に連れて行った時は、鴨居と天井
の間にずらりと飾られた画を見上げ、その一枚の中に書かれた漢詩に目を
留め、
「これ、学校で習ったな」
「うん」
 二人は感じ入っているが、私には、とんとさっぱりわかりませぬ。
 で、訊ねたら、やっぱり、
「いやいや」
 にこやかに笑って、説明してもらえなかった。
 どうせ右から左、と思われたのだとしたら正解ではあるけれど、一瞬だ
けでも同じレベルに引っ張り上げて混ぜてくれてもいいだろうに。
 賢い人は、知的な楽しみは独り占めなんだなあ。
 それで奮起させられた私であったが、今思い返すと、あれ、あの時、私
はごまめ扱いもしてもらえなかったんじゃない。
 でも、批難はしない。
 私自身の中でごりがんの決着がつけられたら、無知をさらした相手に教
えてあげようとは思わなかった私だから。