写真の功罪

 私は基本、襟付きが好きなので、長袖はシャツもブラウスも襟付きだ。
 襟なしは夏だけ。
 だが今年は、五月早々、夏の暑さが到来。
 日本に初めて来るフランス人に付き合うことになっているが、何を着てい
ったらいい。
 悩むということは、手持ちのでは駄目だと私の心が感じているということ
である。
 写真のせい。
 私はカメラが趣味で、とは言え、コンパクトデジカメで十分で、ただし、
パソコンの画面一杯の大きさにしても耐えられる画質は譲れないので、高画
質、高機能で群を抜いているカメラを使用。今は八世代目に入ったらしいが、
私のは初代の一台である。
 風景を撮る。友を撮る。見知らぬ誰かにシャッターを押してもらって、友
と一緒に写る。来たという証拠だ。
 帰宅し、パソコンに保存し、送るべきは友に送ったら、もう見返さないが、
前に行ったのと同じ所にまた行くことになったら、見返す。ここからここま
ではこのぐらい時間がかかった、というようなことをデータから読み取り、
参考にするのだ。
 服装も確認。
 この時に悔やむことが多い。
 どうせ一日だけのこと、手持ちの服で何が悪い、という気持ちでその服を
選んだ記憶はあるのだが、たとえば、春の初めに比叡山に行った時は、寒く
なり、友も私もバッグの中から羽織る物を取り出したが、友はダウンジャケ
ットで服に合ったカジュアル路線、一方私のはトレンチコート仕立てで、そ
れを羽織ると下の服とちぐはぐ。
 そんな発見が、過去の写真を見ると多々ある。
 新型コロナウイルスの自粛生活のあいだにカジュアルが一層幅を利かし、
私の好みを押し通すのは片身が狭くなる道になってしまったが、それでも我
関せずの立場を貫くことはできる。
 けど、私の目は時代の目になっていて、私の服装を批判してくるのだ。
 時代に迎合するしかあるまい。
 そんなわけで、五月に入ってすぐ、袖が抑えめにひらひらした、今年はや
りのTシャツっぽい一着を買った。
 しかし、朝晩はまだ寒い。羽織るものがいる。あのトレンチコート風のは
着たくない。
 写真という自分を客観視させる物がなければ、あるのに、上着がない、な
んて思わなかったはずだろうに。
 いや、写真が、自分の「好き」と「どう見られたいか」を分けて考える必
要を教えてくれたのだとしたら、写真のおかげ、と言うべきではないか。
 そう思い直し、百貨店へ。
 買う気満満。
 が、食指が動くのがない。
 どうしたらいい。