視力の功罪

 仕事を終えて帰る道中、向こうから職場の人がやって来ると言った。
「私の眼鏡は度数が低いので、気がつかないで通り過ぎることも多い
の。でも、悪気があってそうしているのではないから、そういう時は
許してね」
「え、私もそうなんですよ!」
 私は、裸眼だと、10cm以上先の世界から直線が消える。眼鏡は
パソコン画面に焦点を合わせるために度数をかなりゆるくしてあり、
眼鏡をかけて、なんとか“人並みに眼の悪い人”になれるのに、通勤
時には眼鏡をはずす無謀さのせいで、知り合いの不興(ふきょう)を
買う頻度は彼女の非ではない。この時は、たまたましていただけなの
だ。
 まあ、こういう私とわかってくれた人は、5メートル先あたりで私
に出くわすと、体をおおげさに二つ折りし、手をひらひら振って「私
よ、あなたの知り合いよ」と合図してくれたりする。
 だが、その彼女には、「でも、猫はわかるのよねえ」と言われてし
まった。前日に職場の敷地内で猫を見たと私が話したからだ。
 猫は「ミャ〜」と鳴くし、身体のサイズも違うから、どんなド近眼
でも、猫を人と間違えたりしない。けれども、目の良い人に目の悪い
人の物の見え方は理解不能であるとよくわかった。
 目が悪くて得をすることはない。いや、一度だけ、そうなりかけた
ことはあるな。
 高校時代、旅先の朝食で蜂の子が出された。
 出された物は残さないことを礼儀とわきまえる私は箸を伸ばした。
 と、友達が「ちょっと待って」と言った。「これって虫ちがうん」。
 私は小鉢に顔を近づけて、その物体に焦点を合わせた。確かに虫だ。
空を飛ぶ蜂の形をした物達と、幼虫達。
 昔は貴重な蛋白源だったとか、今でも滅多に手に入らない高級珍味
という知識をたぐり寄せ、「なんてラッキー!」と理性は喜ぶのに、
感情は「虫だ!」と逃げ腰になる。
 もし、あの時、何が出されたのか、しかと認識せぬまま味わってい
たなら、蜂の子が私の好物になっただろうに。
 視力に好奇心を奪い去られてしまった。
 我が人生の悔恨の一つである。