昔話のおばあさん

 母が、テレビのクイズ番組で、ピノキオのおばあさんの年齢が四十な
ん歳かであったと知ったのが衝撃だったらしく、その話をした。
 私は「え、ピノキオにおばあさんがいたの」とびっくり。
 年齢に関しては、ああ、これで童話や昔話のからくりが読めたな、と
思った。
 日本の御伽草子(おとぎぞうし)『一寸法師』は、子宝に恵まれない
四十歳のおばあさんが住吉大社にお参りし、四十一歳で小指よりも小さ
い男の子を授かった、というのが原文。初めて知った気がするのは、子
供の頃に読んだ本では、そういうことは省かれていたのだろう。
 だが、「ただならずありぬれば(=ただごとではないので)」おじい
さんが限りなく喜んだ、と続く文章は、原文に忠実に再現されていたは
ず。
 おかげで、幼い私は、聖母受胎に類する不思議が起こったのだ、ぐら
いで素通りしてしまった。また、そうさせるよう、絵本の挿し絵はどれ
も、枯れた老夫婦が描かれていた。
 大人達は、ぐるになって幻想を吹き込んでいたのだ。
 しかし、中学生の時、女友達が、自分の母親が夫婦の性生活は良いも
のよ、というようなことを言うけれど聞きたくない、と言うのを聞いて、
本当にそうよね、と思ったことを思い出すと、やはり、その手の生々し
さを子供の視界から排除したのは正解だったと思う。特に、それがスト
ーリーを左右する重要な鍵となるのでないならば。
 今は、食糧飢饉などの社会不安から「四十過ぎの子供は恥かきっ子」
と高齢出産が諫められた時代は遠く過ぎ去ったし、体外受精で女性は六
十になっても子供が産めるようになった。
 昔の比ではない情報量。それだけ心も開かれているだろう、と思って
いたら、今回の紀子様のおめでた報道に対し、「でも、大丈夫なんです
かねえ」と二十三歳の男が感想を述べた。
 まあ、彼は、橋本弁護士に六人目の子供ができるという話で盛り上が
った際、「僕にはそんな体力ありません」と言って、「体力が必要なの
は奥さんの方でしょう」と私から反撃を喰らい、すでに客観的判断力の
危うさを露呈していたのであるが。
 いや、そんな風に厳しく批判するのは酷というもので、いかに情報量
が多くなろうと、それで知的成熟が早まるわけではない、むしろ情報に
溺れて回り道することもある、と見るべきなのかも。プラス、上の世代
のことは想像を超えるがゆえに、想像が的外れになっただけなのだ、と。