自腹で腕時計

 生まれて初めて腕時計を買った。この長きにわたる人生において、ち
ょっと驚愕の事実ではないだろうか。
 私が長年、時計を買わずにすんだのは、もっぱら父のおかげである。
 当時はまだ珍しかった、ビニール製か何かの、安っぽいけどセンスだ
けで勝負する真っ赤っかの大きな腕時計やら、セイコーの指輪時計。か
と思えば、スイス製のテントウ虫の金のペンダントウォッチ。羽根を開
けて文字盤を見るこの時計は、今、千円ぐらいのコピー商品がやたらと
出回っているが、私のがオリジナルだ、と秘かに悦に入っている。
 ただ、まともな腕時計がないのは、なにかと不便。
 と思っていたら、祖母が生前、オメガの金時計をくれた。
 その小振りの文字盤は今や昔の流行で、同じタイプがアンティークと
して売買されている。アンティーク好きの私には、ぴったりの腕時計で
ある。
 しかし、金製というのが、なんか気取っているように感じられてきた。
特に、カジュアルな夏には不向きである。
 そこで、とうとう自腹を切ることを思い立った。いや、本当は、クレ
ジットカードのポイント交換のカタログにSWATCHの腕時計が紹介され
ていて、そうだ、新しい腕時計! と意識が触発されたのだが。
 店頭で現物を確認したら、カタログの写真とは文字盤の青色がずいぶ
ん違ったので取りやめたものの、一度目覚めた物欲は、“必然”という
ベールをまとって、私の背中を押してくる。
 バンドは革が好みだが、湿度と夏の暑さがネックの日本では、やはり、
ステンレスかチタンという選択肢になってしまう。そんな妥協精神をも
満足させてくれる、バンド部分に文字盤と同じオレンジ系の色がはめ込
まれたブレスレット感覚の腕時計を見つけた。
 私の腕に合わせて、一つパーツを取り去ってもらう。
 それで思い出した。昔、ロンドンのハロッズで、免税で買えるのなら
一つ買って帰ろうと、ロシア製か何かのを選び、バンド部分をカットし
てもらってから、それは安すぎて免税にならないと言われ、店員と揉め
ていたら、さりげなくスーツ姿の女性が近づいてきて、話を聞き、「で
は、結構です」と私の意見を通してくれた。
 そういうこともあって、一層、時計は人からもらう物、と思い込むこ
とになったのだろうが。
 思い込みは頑(かたく)なな精神にも通じるわけで、こんなちっぽけ
なことでも、また一つ、心が解放された、と思うと、今回の買い物はお
おいに意義があったように思う。