本物の退屈

 強い日差しが空から降り注いでいる。風も少し強い。なのに、空気が
からっと乾いていて、こういう感じは珍しいなあ。でも、一年のうちで、
この季節だけはそういうものなのかもしれない。
 風薫る季節。光が射す場所と射さない場所でくっきりと濃い陰影が形
作られている。
 両手を広げても、どんなに追いかけ回しても、決して、つかまえるこ
とはできない。わかっていても、今、目の前に広がるこのすべてを自分
の物にしたいと欲深な思いに囚われそうになる。
 実際には「ああ、いいなあ」と胸いっぱい爽やかな空気を吸い込んで、
何もしたくないという心の声に耳を傾けることになるだけなのだが。
 ゴールデンウィークは終わったのに、いや、だからこそ、と言いたい
ほど、脳がふやけている。
 ごちゃごちゃ考えるのは止めて、ただ、流されればいいんじゃないの、
と思えてくる。
 みんなは、どうなんだろ。
 それで思い出したのは、フランスにいた時、大学生が「いい加減、新
学期が始まってほしい」とぼやいたことだ。
 六月半ばから九月半ばまで夏休みがあると、バカンス好きの彼らでも、
さすがに閑を持てあますんだと笑えたものだったが、新たにやる気が漲
る(みなぎる)ためには、心底、退屈を実感することが必要なのかもし
れない。そうして、何かしたい。何かせずにはいられない気持ちが心の
奥底からふつふつと湧き上がってくるのを待つ。
 ところが、閑になると、テレビをつけてしまう。特別おもしろくなく
ても、なんとなく一時間、二時間と見てしまう。見終わって、ああ、役
に立った、と思うことは少ない。それでも、時間を無駄にした、とも思
わない。
 日本人が授業や会議中でも平気で居眠りするのは、日本人にとって最
も重要なのは、その場にいることだからではないか、と分析した西欧人
がいたが、そうかもしれない。だから、テレビも、見ている自分は会話
に加わらなくても、一緒にその場にいる感じになれれば、有意義とまで
は言わないにしても、無意味と思わず楽しめてしまうのかも。実際、そ
の手の番組は多くなったように思う。
 だが、そうしているあいだも、人生の砂時計はさらさら落ちていって
いる。