頬キッス

 モンゴル出身の力士が母国に里帰りし、ご両親と再会すると、まず頬
と頬を軽く触れ合わせた。ふーん、東洋でもそういう文化圏があるんだ。
いいなあ。
 相手と向き合い、互いの左頬と左頬、右頬と右頬をくっつけ合う。フ
ランスでは、パリなどの都会では二回に簡素化されたが、田舎に行くと、
未だに昔ながらに四回の場合もある。私は、ブルターニュにいた時、言
葉で言い表わせない多くのことを伝えたくて、四回を選ぶことが多かっ
た。「四回も!」とにこにこ笑って言われたりしたが。
 だが、初めの頃は、近い方の頬をすっと差し出すコツが掴めず、苦労
した。わざわざ遠い右頬同士を最初に合わようとしたら、目的は達成で
きたが、その前に相手がドキンと慌てた表情で凍り付いてしまったのは、
唇を奪う行為と勘違いされたからだろうか。相手は女子高生だった。
 ところが、慣れれば慣れたで、問題は発生。
 中学校の林間学校にヘルプで行くと、朝、遅れて食堂に降りていった
ら、先に座って食べている人達全員のあいだを回って、ほっぺたを合わ
せてゆかねばならず、食事を中断させると思うと憂鬱だし、周りのみん
なの視線が集まるような自意識過剰の気分にも襲われ、なんで入口で全
員に「おはよう!」じゃいけないのよ、と腹が立ってきた。私だけ一人
パリに出発する日が来ると、TGV(新幹線)の時刻もあるので、玄関まで
見送りに来てくれた大人達に、「じゃあ、また」とだけ言い、車に走り
寄ろうとして、大顰蹙(ひんしゅく)を買いかけたし。
 なのに、日本に帰ってからは、頬キッスの風習が懐かしくて仕方ない。
これなしでは、いくら口先で「元気だった?」「元気でね」と言い合っ
ても、大きな忘れ物をしている気がしてならない。
 高校時代同期だった“元”男子が単身赴任するというので、送別会が
開かれた。十人弱のこぢんまりした人数が気に入って参加した。
 私は一次会で帰るので、駅前で、彼に「また会おうね」などと言いつ
つ、頬キッスを決行した。
 すると、「転勤がある奴はいいなあ」と声が上がった。
 私の頬キッスを羨ましがられるとは意外だったが、こういう意見が出
たなら、不公平は私の原則に反する。
 蝶のようにひらひら、キッスして回った。
 ただし、女子は除外。日本ゆえの手抜きである。
 見ていた“元”女子曰く、わずかに一名、反射的に私の背中に手が回
りかけた者以外は、全員、直立不動だったそうな。