法の力、人の力。

 昼間、仕事でタクシーに乗った。広々と開けた空の下、どんな時間帯
にも渋滞の起こった試しがない気持ちよい道路を行く。片側二車線であ
る。と、一台の車が横道を左折して、追い越し車線に対面から入ってき
て、私達のタクシーを通り越していった。
 運転していたのは中年の女性。まさか、まだ認知症という歳ではある
まい、などと言ったら、認知症の人達を馬鹿にしたことになるだろうか。
 近頃は、言葉遣い一つとっても、妙に気を遣わされる。
 母が、私が惚け扱いしたと騒ぐので、一体何の話だ、と思ったら、私
が「惚けてんのん、違うん」と言った言葉に過剰反応してしまったらし
い。しかし、これは、笑えるような愚かしいことをした人に向かってご
く普通に口にする、気安い仲だからこそ赦される言い回しで、母だって、
これまでに数え切れないほど人から言われ、また自分自身も言ってきた
だろうに、そろそろ、自分とは完全に無関係とも言い切れない時期にさ
しかかった覚悟をしたら、さらっと聞き流せなくなったのだろう。
 高齢者、特に七十歳を過ぎると、年齢が理由の事故が急増するという
ので、警察庁が、七十歳以上はステッカーの表示義務、七十五歳以上で
認知症の疑いがあれば、専門医の診断を経てから免許取り消しや停止処
分を行なえるよう交通法の改正案を提出することにしたらしいが、果た
してスムーズに施行できるのかなあ、と、対象となる人達の心情を思っ
て、疑問になっている。
 客観的な診断結果であっても、「認知症の疑いあり」や「認知機能の
低下が疑われる」と判断されて、どれだけの人が素直に受け止められる
だろう。
 何事であれ、もうあなたには無理なのよ、と人から指摘されて納得さ
せられるのは、自尊心につらい。それが普通の人間である。理屈や法律
で従わせようとしても、大人の自我が抵抗する。
 しかし、自我は大人だけのものではない。子供達は、従属するしかな
い身分ゆえ、有無を言わさず従わされているだけのこと。
 ところが、フランスで、利害が対立する諸外国から自国に有利な決定
を引き出すべくうまく持ってゆき、あたかも本人自身が望んでそれを選
択したよう納得させる戦術が、家庭にて、子供に対してすら当たり前に
行なわれているのを見て、そうされると、一方的に頭ごなしに強要され
た気分にならないことを学んだ。
 ちょっとの手間と知恵が必要になるが、人間相手のことは、すべから
く、このひと手間が鍵になるのではないか。
 それさえあればなんとかなる、ということでもある。