それでも盗作だと思う

 私が自分の幼さを恥ずかしく意識したのは、大学時代、友達が洋服の
販売か何かのアルバイトをしているというのを聞いて、従業員価格で安
く買えるのが羨ましいと言ったら、目で激しく軽蔑された時だ。
 確かに、その程度のことを羨ましがるとは底が浅い。
 読書はそれまでも私の空気だったが、私は、もっと読んで、精神的に
大人になりたいものだと強く思った。
 それと、人間性を知ること。
 なぜ、そう行動した。そう考えた。
 わからなければ聞けばいいと言うけれど、聞いて、腑に落ちる答えが
返ってくるとは限らない。自分自身の心を深く見極めたことがなくて、
適当に答えるしかないのかもしれないし、人はみな、ちょっとばかり自
分をよく見せようと飾るものでもあるからだ。
 結局、人を知りたくても、人そのものから解答は得られない。
 それを納得させてくれるのが小説だった。
 ところが、読んで、読んで、読みまくっているうちに、ようやくこの
世はなんでもありだと得心するまでに成長した。もちろん、実社会での
経験やワイドショーなどの側面援助はあったのだが。
 すると、急に虚脱して、小説に飽きた。
 これまでは、読書は心の糧になると、折に触れ、人に勧めたい気持ち
でいっぱいだったのに、去年、一ヶ月間一度も読書しなかった二十代が
さらに増えたという調査結果が発表されても、私自身は本の力が必要だ
った領域に、みんなは自分の経験だけで到達できているんだろうからい
いんじゃないの、と思えてしまうほど。
「生きすれる」とは田辺聖子の造語だが、なんでもありと納得できるま
で生きすれると、ストーリーの奇抜さや大胆さでは驚かされなくなって
も仕方あるまい。
 つまりは文の芸、すなわち文体がいかに妙なる音楽を奏でてくれるか
が小説の眼目となり、それを求める読者に近頃の小説が喰い足りるわけ
がないのだが、文学のアンティークに宝は見つかるやもしれず、自己啓
発、実用書のたぐいに一時避難しているうちに、新たな探索意欲も甦る
であろう、と小説以外を読み散らしていたら、過去に別の著者の本に出
ていたのと同じ挿話を自分のオリジナルのように書いている本に相次い
で出くわした。
 驚いて読み直すと、自分自身が見聞きした話とはどこにも書いていな
いと言われたら黙り込むしかない巧妙さで、いたく感心した私は、今後
のために、その技法を習得しておいた。